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何故野中広務が私を秘書にしたのか?今考えると

 私が、野中広務先生の秘書に何故なれたのかを今更ながら考えると大それた言い方になるが、当時の野中先生の考えがわかります。

 あの頃の中選挙区制の京都第二選挙区は、日本で2番目に広い選挙区で、兵庫県よりの久美浜町から南の三重県との県境の南山城村まで車でノンストップで行っても6時間はかかる広い選挙区で、人口が密集している地域というより万遍なく住まわれているので飛ばして周るような市町村はなかったです。ただ、自民党同士の紳士協定のようなものがあり、野中事務所としては谷垣禎一先生の地盤の福知山市と加佐郡には、入らないという暗黙の了解がありました。それでもこの選挙区には11市33町村の自治体があり、野中系という系列議員だけでも村会議員まで入れると500名を越える大所帯でした。考えると途方もない殺人的な選挙区です。いざ選挙となるとそれだけの舞台回しをしながら定数5人の中に入った上に、谷垣禎一先生よりも得票し上位の位置と一票でも多くの票を取らないと中央政界では当選回数に見合う良いポストがもらえないのです。

 私の記憶では、昭和61年4月18日に、現在の溜池山王(東京都港区赤坂二丁目)あたりにあった日商岩井ビルの16階だったと思うのですが、そちらにあるクレールド赤坂というフランス料理店で当時の金丸信自民党幹事長と当選回数の若い竹下派の議員が集まって食事会をした時のことです。この食事会に出席した野中先生は、金丸幹事長の例え話で解散総選挙を読み取り、食事会が終わって議員宿舎に戻って直ぐに、地元の筆頭秘書に電話をかけて「金丸のオヤジが解散を匂わせる話をしたので、衆参のダブル選挙になる。空家賃になってもいいから葛野大路の選挙事務所と府議会議員の西村宏のところに出入りしている山田というのを押さえておけ」と連絡があったので、私が呼ばれたみたいです。
 当時の私は、大学を卒業したところで初回の選挙のときは、個人演説会の設営隊という運動員では下の立場でしたが、この頃には、京都の運動員の中でも私が何人かに声をかけると50人ぐらいの運動員が集められるアルバイト頭という立ち位置にいました。衆参ダブル選挙になると一斉に動き出すので、圧倒的に人手が足りなくなる。選挙は、7月ですが、一日も早く人と選挙事務所の土地を押さえて選挙事務所の立ち上げをしておかないと戦えない。まだ、この時点では、改選を迎える地方区の参議院議員の候補者も事務所を構えていなかったのです。
 運動員を別の陣営に取られてはいけないために、私を抱えることによって運動員を確保するために、野中先生は、秘書になりたがっている私に声をかけるように指示されたのだと思います。
秘書が14人いるからうちの事務所にはいらないと言われていた私は、林田前知事が参議院議員選挙に出馬されるから、そちらにでも選挙事務所が出来れば運動員で行けばいいやと思っていた私でしたが、学生時代に京都で何回も選挙を経験して繋がっていた運動員のネットワークと選挙活動の手順が慣れているのが、幸いして晴れて野中広務の秘書になれたのだと思います。
しかし、金丸先生の例え話で解散を読みとり、運動員の確保まで指示を出す野中先生の政治感覚には恐れ入ります。この時点で中曽根総理が衆参ダブル選挙に打って出るというのを読んでいた政治家が何人いたのか?ごく少数だったでしょう。金丸幹事長もこの直前に中曽根総理から何らかのヒントがあったからではないかと思います。正直この政治感は、類稀なものと今でも野中広務先生は、天晴れと近くにいた私でも思います。

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