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【書評】『トランスジェンダー入門』周司あきら 高井ゆと里


【著者の本気度:巧言令色鮮し仁を疑う】


 世の中にある沢山のマイノリティの一つにすぎない)トランスジェンダー(1%弱)をシスジェンダー(99%強)にどう理解してもらえるのか、というのが本書の目的です。
 本書を読む人は既にアライ(理解者)の人が多いと思いますが、必要なのは、トランスジェンダーの問題について、懸念や不安を持つ人をいかに納得させるかどうかだと思います。
しかし(私の印象では)本書の語り方は高圧的、独断的で、異なる意見には対話拒否も辞さないという態度のように思います。
ただひたすら、トランスジェンダーが可哀想で大変というトーン。それで、理解してもらえるのでしょうか?

●【生物学的事実の無視=非人間的なネオリベラリズムとの親和性】


本書における性別の定義、トランスジェンダーの定義、トランスジェンダーにまつわる様々な問題に対して、生物学的な現実を一切無視して論じるのは、人間の伝統や常識、直感に反します。
二人の著者には、言葉で論理や理屈で説得すれば人間を説得出来るという高慢があるように思います。
これはいかにも男性的な先入観です。
理屈や論理だけで、相手を理解させるのは無理があり、女性の不安に寄り添う思考がまるでできていないのは、社会の反発を生むだけです。
私はそれが今のトランスジェンダーバッシング現象の一因だと思います。
(加えて、水泳選手リア・トーマスの出現は、これまで築き上げてきたトランスジェンダーに対するパブリック・イメージを一気に変えるものでした。)
トランスジェンダーという概念について生物学的事実を無視するならば、これはひどく非人間的な考えだと思います。非人間的な考えが労働や政治の分野に応用された場合、それはネオリベラリズムそのものです。小泉竹中政権の時代から、笙野頼子氏はネオリベラリズムを批判してきましたが、その笙野氏が文壇でキャンセルされたことについて、私は関係があると思います。すなわち、(生物的性差を無視する)トランスジェンダー運動は、ネオリベラリズムとその思想において、同一であるということです。


【トランスジェンダー活動家によるキャンセルカルチャー】


私がこの本が”高圧的、独断的で、異なる意見には対話拒否も辞さないという態度”だと感じるのは次の理由です。
本書において、「FTMではなくトランス男性、MTFではなくトランス女性へ、という表現の置き換えが好まれるようになっています。」という記述があります。
この”好まれる”という記述は、何らかのアンケートや統計を取ったのでしょうか、それとも著者の主観でしょうか?
私がここで不安を感じるのは、MTFやFTMという言葉をトランスジェンダーのコミュニティで使用すれば、あるいは自己紹介する際に性同一性障害の診断を受けたMTFであると自己紹介(self-describe)すれば、独りよがりの社会正義に燃えるトランス活動家に嫌われて、排除されるのではないのかという不安です。
あるいは、今の時期にあえてトランスジェンダー入門という本を書いて、しかも本邦初の本格的入門書を銘打つわけですが、
その前には性同一性障害に関する本や言説が沢山あったわけですが、これらはもう読むべきじゃない、そう言いたいでしょうか?

【トランスジェンダーの傘の中の差別。GIDは攻撃され続けてきた、傘の中に安心安全は無かった。】



さて、この本は次のように、トランスジェンダーの概念について広く捉えています。
「このとき、そのように同じ差別の雨に打たれている人々が集まる傘(アンブレラ)として、『トランスジェンダー』という言葉が使われることがあります。それが、アンブレラタームとしてのトランスジェンダーです」(20頁)
しかしこの本は 性同一性障害(GID)という概念や特例法について、否定的に記述していますし、現実には、同じ、アンブレラタームの中において、トランスジェンダーからGIDが酷く罵られ続けててきた歴史があります。
すなわち、トランスジェンダー活動家からすれば、GID概念はトランスジェンダーの一部しか救済しない差別的概念でである、それゆえ、キャンセルされるべきである理屈です。

【GID概念の安定性、有効性、トランスジェンダー概念の不安定性】


現在は性別違和を抱える当事者の診断においてGIDは無くなり、GI(性別不合)という診断が行われるようになっています。
しかし私はGIDという概念は衰退どころか、再興しつつあると考えています。
すなわち、LGBT法案の審議で明らかになったように、GIDという概念はトランスジェンダーよりも、日本国民の間に広く定着しており信用度が高いという事実でした。
さらに、GIDが脱病理化され性同一性障害が精神障害がなくなった結果、医療の健康保険も受けづらくなる可能性がありますし、障害という言葉が消えれば、GIDを含むトランスジェンダー当事者が生きる上での、社会的障壁の可視化がしづらくなるという懸念があることから、GID概念はやはり有益だと私は考えます。
また、GID特例法の戸籍変更条件は、私見ではよりベターな代案が国民的支持をまだ得ていない現状を鑑みれば、維持するべきだ思います。
それ故私はGID概念、GID特例法はいずれも、GIDの症状を抱える当事者にとって、有効な概念や制度と考えていますし、特にGID概念は保全するべきだと考えています。

●【トランスジェンダーは性同一性障害と区別して論じられるべき】


本書ではGID特例法(A)を廃止して、(より多くのトランス当事者のための法律)”性別承認法”(B)を提言していますが、現実的な代案でしょうか?
対話拒否(no dedate)で文壇、論壇だけの口だけ活動家に何が期待ができるのか疑問です。
そもそも、性の多様性を言うのならば、トランスジェンダー限定の性別変更特例法を作ればいい話です。
なぜGID特例法をわざわざ廃止しようと画策するのでしょう?
仮に、GID特例法が廃止されて、”性別承認法”が成立しないならば、その結果はTERF(トランスジェンダー排除フェミニスト)が求めていることと同じですよね。
私は著者がTERFじゃないと言い切れ無いと感じています。

これは出来損ないのマイナ保険証(B)を国民に強制して、従来の紙の保険証(A)を強引に廃止使用して、反発を引き起こしている状況と似ています。
改革されたもの(B)が古いもの(A)より優れているとは限りません。

だから、”トランスジェンダー活動家には、GID特例法に指一本も触れてほしくない”と心から思います。

●【真の多様性とは多元主義の許容】


結論として、私が感じるのは著者の一元的な全体主義の思想です。
真の多様性とは、多元性、多元主義でしょう。
一元的に留まるのであれば、もはや宗教、カルトと変わらない。
lgbt活動家にはその視点がまるで欠けていることが、昨今のトランスジェンダーバッシングの真相だとわたしは考えています。
lgbt理解増進法の施行直後に、「女性の安全/女子スポーツを守る議連」が作られ、トランスジェンダー当事者の状況は悪化しているように思います。
著者に代表されるアライの活動家は本当にトランスジェンダーのためになっているのか、読者は見極めるべきだと思います。

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