私にとっての「終活」

 無職のおひとり様となって、ますます「終活」の必要性を感じ、それなりに取り組んで来た。遅々として進んでいないのが現状、ではあるけれど。

 ちゃんと備えなければ、という焦り、責任感、プレッシャー。赤の他人に「後はヨロシク!」とばかりに、丸投げする訳には行かない、そうはしたくないという強い思い。それらの思いが空回りしている。
 どれだけ取り組んだとしても、自分の命の終わりなど分かるはずがない。道半ばで時間切れになる可能性もある、との思いもある。
 終活のための実動より、あれこれクヨクヨ、ウジウジ考えている時間の方が多い。そんな自分に呆れながら「私にとって終活とは、自分の死と向き合うこと。それは、やはり困難なこと」であると、つくづく感じている。

 祖母の死をきっかけに「死」について考えるようになり、確かに「人間、致死率100%」と納得し、自分の死も覚悟したつもりでいた。が、いざ「終活=自分の死に備え、自分の死を見据え、向き合う」ことを始めてみたら、怖気付いたのだ。きっと、多分。

 自分もいつか、必ず死ぬ。自明の理として分かっているし、認めている。だから、○才まで生きる、なんて目標は定めていない。しかし、けれど、だが、正直言って、今はまだ死にたくない。「いつか」=「今」であってほしくない。この思いがあるから「自分の死への備え」にも、二の足を踏んでいるのか。備えることで、自分の死が近づくように感じるのだろうか。我が心の複雑さを思う。
 おひとり様ゆえ「死後事務」を託す、私的存在はいない。この現実も見据えたいのに……。

 今日も命があることを願い、時間切れも覚悟しつつ、やって行くしかないか。 やらなければゼロだけれど、一つでも、0.1でも取り組めば、それだけ増える、積み重なる。
 私の終活最終目標が「準備万端整った。もう、いつ、何があっても大丈夫」この安心感を得ることであるならば、やはり、取り組んで行くしかない、かな。自分の複雑な、さまざまな気持ちと向き合いながら。慌てず、焦らず、頑張らず。

 自分はどうしたいのか、どうなりたいのか、自問自答し、変更を恐れず、必要とあらば軌道修正し、情報も取り入れ、アップデートして、何とかやり遂げたいものだ。
 

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