ゼロサムゲーム・透明な象

 「ゼロサムゲーム」。参加者全員の得点の和(サム)が常にゼロである得点方式のゲーム。一方が得点するとその分、他方の持ち点が減るので、全部の持ち点の総和はゼロになるというゲーム理論(kotobank.jpより)。

 毒親で、多分に自己愛性パーソナリティ障害的傾向が強く、私(娘)が密かに「天動 説男(てんどう せつお)」と呼んでいた男親は、自分の家庭にこのゼロサムゲームを持ち込み、勝者はいつも自分でなければ気の済まないヒト、だった。
 自分の得点が減るのを忌み嫌い、相手(家族)の得点を許さない。自分が一番。自分は誰よりも尊重されるべき。家族はそのための道具。無論、そんな自覚は全く無し。
 家族の誰かが得点する(心地良く過ごし、安心感を得る)ことで、自分の持ち点が減る(自分が何かを我慢しなければならないと感じる)のは、耐え難い苦痛。自分、じぶん、ジブン。俺様、おれさま、オレサマ。見事なまでに共感性が欠如しているヒト。
 こういうヒトであったと、私が理解し納得したのは、つい最近のこと。何年か前に、このヒトと我が身の境界線を死守しつつ、遠距離介護に携わった。結局、死後事務まで遂行することになったが、これはこれで、我が終活の良き学びとなった。
 以後、ふとした拍子に思い出す、父娘のさまざまなエピソードとnetの記事が「ゼロサムゲーム」に気付かせてくれた。

 家庭って、家族って、そうなの? そんな家庭に育ってしまった私の、素朴な疑問。家族がいたら悲しみは減衰され、喜びは倍増するんじゃないの?? あくまで理想に過ぎないの??? 誰かの我慢や犠牲、諦念によって成り立っている、誰かの満足。そんな家族、家庭。悲しすぎる。某TVドラマの科白じゃないけど「そこに愛はあるの?」。いや、無い。少なくとも、私の育った家庭と、最初の結婚生活には無かった。

「愛(する)とは、その人がその人らしく在るのを喜ぶこと」。 この「愛の定義」を、私は支持している。

 育った家庭と、最初の結婚生活において「私が私らしく在る」のは許されないことだった。「自分らしさ」を実感していると、必ず横槍が入った。それに気づいた時から私は、自分らしく在ることを諦めた。生き延びるために。

 男親と最初のDV夫は、それぞれの家庭、家族にとって「透明な象」即ち、大きな問題として存在していた。にもかかわらず、そんな問題など無いかのように振る舞った家族。そうせざるを得なかった家庭。いずれにしても「機能不全家庭」。
 「透明な象」の破壊力はハンパなく、容赦なく、私を追い詰めた。心身共に疲弊し、不調を来し始めてやっと、私はそれらを捨てた。このままでは死んでしまうと、脳内アラートが鳴り響いていた。その後、多くの人の助けによって手に入れた安心、安全、平安。そこには再婚相手まで。二度と結婚なんかするものか、と思わなかった自分が、未だ不思議でならない。

 以前も書いたが、再婚したばかりの頃、私は亡夫が彼らしく在るのを、喜べなかった。あまりに自由で、想定外の存在だったから。彼の言葉の裏を読もうとしたり、フツーの枠組みに無理矢理当てはめようとしたり。キツく当たったりもしてしまった。そんな自分が辛くなり、悩みに悩んだ。そのような時に出逢った、この「愛の定義」。助かった。楽になった。
 
 「その人がその人らしく在るのを喜ぶ」。これはゼロサムゲームではない。お互いがお互いに喜び合い、満足し合っていると、私には感じられる。そういう関係だったら「透明な象」の出る幕も無いだろうし、悲しみは減衰され、喜びは倍増するだろう。また、そうであってほしい。

 死者は美化され、記憶は書き換えられると心得ているつもりだが、亡夫と紡いだ時は確かに「その人がその人らしく在るのを喜び合った」時だったと思っている。その心地良さ、喜びを味わった者として、我が人生の幕引き、その瞬間まで「その人がその人らしく在るのを喜べる」人で在りたい。
 


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