ワン・アクション

 先日、腕時計をメンテナンスした。その時計を購入して初めて、だと思う。

 ケータイ、を持つようになり、いつしか腕時計をしなくなっていた。スマホに移行しても、それは変わらなかった。
 無職のおひとり様となり、スマホを持ち歩くのをやめた。即レスしなければならない用件など無いし、時刻や時間を気にする必要も無くなったから。時刻が知りたければ、駅や店に時計はある。だから腕時計もいらないと、最初の頃思っていた。が、人と会う約束をしている時は別だった。やはり時刻が気になった。そこで、腕時計の再登場だ。メンテナンスを施した結果、使えるようになって安堵した。「この時計が欲しい!」と切望して買った時計だったので、よみがえったのは殊更嬉しい。又、知りたいと思った時、ワン・アクションで “すぐに” 時刻が分かる、そんな単純さに感動した。
 スマホでは、そうは行かない。まず、スマホを取り出し、画面を明るくし。そうしてやっと分かる。折りたたみ式ケータイの時代は、開ける、この動作も必要だった。スマホも、カバー付きのケースに入れていたら同じだ。ほんの数秒のこと、なのだが「すぐ」と「幾つかの行程を経て」とでは、やはり「すぐ」に軍配を上げたい。

 ワン・アクション。腕時計に限らず、モノを置いたり保管したりする時の、重要事項のようだ。腕時計の復活で、はからずも実感した。
 モノに関して言えば、使いたいと思った時、すぐ手に取れて、パッと使える、これがワン・アクション。何だか清々しさまで感じる。その、モノを使って何かをするためのモチベーションが、私の場合、下がらずに済む。スムーズな流れに、ストレスも軽減される。
 ところが、ところが……。実際、現実、現状は未だ、かなりストレスフルだ。あり過ぎるモノに囲まれ、その整理も行き届かず、結局、あれこれ探し回っている時が多いのだから。モノがありすぎるのは、時間もお金も労力も無駄にしていることに他ならないと、大抵の片付け指南本に書かれているが、それを今頃やっと、自分事に感じている状態。

 ワン・アクションの快適さを手に入れたい。今からでも遅くない。まだ生きて、何かしらモノを “使う” のだから。

 終活の一環に過ぎないと捉えていた片付け、整理、処分。捨てることにばかり、目が向いていた。生活環境を整え、快適に暮らすための方策など、考えもしなかった。だから、今からそこに、生きている間の快適さも意識する、この目標を加えよう。

 考えてみると、知らず知らず私は、自分に縛りをかけていたのかも知れない。「快適な暮らし、心地良い生活など、してはならない、お前にする資格など無い」と。まだまだ、自分で自分を心の底から大切にしていない、尊重出来ていない証拠。それが可能なのは「自分」だけなのに。それほど、毒親の毒は猛毒で、別れたDV夫から受けた、精神的DVの傷、トラウマは深かった、ということか。
 こんな気付きに、愕然とし、ガックリしてしまう。けれども、ものは考えよう、ものごとは表裏一体であり、多角的、多面的に捉え、眺められるのも、一つの真実だ。気付けただけマシ。「まだまだ出来ていない」を「伸びしろがある」と捉えたい。
 生きてさえいれば、ともかく「クロノスの時」は過ぎて行く。先のことなど、誰にも分からない。「今、この時」の気付きを、未来への希望にする。「伸びしろがある」と捉え、そういう自分に期待する。

 過去と他人は変えられず、先のことは分からず……。だからこそ「今」が大切。こんな当たり前のことにも「今頃やっと」気付いた私。そんな「私」を今、私は愛しく思う。

 

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