豊かな甘々(あまあま)

 お互い忙しく、なかなか会えずにいた友人に、やっと会う機会が与えられた。
 彼女は東日本大震災の時、東北地方で暮らしていた。玄関先まで津波が来たと、当時語っていた。そして今、元日の地震、その後の状況に、自分の被災が思い出されて辛いと、話してくれた。

 ハッとした。一瞬、言葉を失った。

 そこまで想像できていなかった。今回の地震で、東日本大震災だけでなく、阪神大震災、熊本や新潟、北海道等、過去の大地震も思ったが、それは思っただけだった。震災後、を生きて来た方々の心にある、さまざまな思い、思い出、トラウマが、同じような出来事をきっかけに、否応無しに呼び起こされてしまう。そこまで思いが及ばなかった。
 けれども、考えてみたら、そうなるのは当然のことだ。私だって、DV、ストーカー、モラハラ等のnewsに、自分のその頃が、鮮やかによみがえるではないか。未だフラッシュバックすらある。だから「もう、終わったこと」、「既に遠い過去のできごと」と捉えられないまま。逆に、それらの意味(終った、とか、過去の、とか)が分からずにいる。

 会えずにいた時を埋めるかのように、沢山お喋りした。二人とも、時期は異なるが「未亡人」になってしまった(私は病死、彼女は突然死)。配偶者の死によって浴びせられた、外野からのまこと配慮に欠けた言葉や態度。悲しむ心、混乱した心を携えて生きなければならない苦しさ等々も話題となり、話は尽きなかった。どれも「寡婦(やもめ)あるある」と思いながら、私はいた。

 月並みな表現だが、体験した(させられた)者にしか分からないことは、いくらでもあるのだ。安易な慰めの言葉は、それを口にするヒトの、本人も気付かない、不安を打ち消すための言葉であるおそれがあることを、忘れたくない。そんな言葉、百害あって一利無しだから(自戒を込めて)。

 ひとしきり話し終わって、彼女が口にした「今は『豊かな甘々』を満喫する時だね」。過剰適応、忖度、自主規制、自分(の心を)を殺す、これらにがんじがらめになって生きて来た私の、今の暮らし振りを知っての言葉だった。
 「豊かな甘々」。自分に優しく、自分の心に正直になり、自分をまず大切にする生き方。言われると、何とも「こそばゆい」が、悪い気はしない。甘々、即ちルーズ、ではない。自分の心に正直になり、自分をまず大切にするからと言って、他人を馬鹿にしたり、ないがしろにする訳でも無い。ましてや、傍若無人、厚顔無恥に振る舞うつもりだって。ただ、そう感じるヒトはいるかもしれない、とは思っているが。

 「苦労は買ってでもしろ」、自分のモットーは「先憂後楽」と、常に、自慢気に、口にするヒトがいた。が、実際の生き方は、とんでもない「先楽後楽」、「傍若無人」、「自分が(は)一番、他人は家来、召使い」だった。そんな輩が身近にいたせいか「我慢、忍耐、自分(の心)を殺すのは美徳」という類の言葉など、今となっては到底信じられない。「私は真面目で善い人です」と、陰に陽に、やたらアピールするヒトは、むしろ胡散臭く感じる。それだったら「自分は実は強欲で、快楽主義的傾向が強いと思っている」と、率直に告白できるヒトの方が、よほど正直で誠実、そして信頼するに値すると、今の私は感じる。何をどう取り繕おうと、私も含め、ヒトの欲望は限りなく、ヒトの行動は突き詰めれば「快楽原則」にのっとっているのだから。又、さまざまな「心の闇」の存在を認め、自分のそれを自覚し、受け止め、闇に落ちるのを踏みとどまっているヒトの胆力を、私は尊敬する。

 そういうヒトこそ、この「豊かな甘々」を思う存分、享受出来たら、そういうヒトにこそ、享受してほしい、と切に思う。


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