私の3.11備忘録−1

東日本大震災から10年。
もう10年なのかまだ10年なのか。

あの日、そしてしばらくの日々を思い出しながら備忘録として今しばし綴っていこうと思う。
※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

今勤めているスーパーには既に勤めていた。当時は徒歩20分くらい。16時出勤だった私は、そろそろ支度を始めようとしていた、と地震。随分大きかったのは確かだ。又当時は築数十年という木造平屋ボットントイレという借家に住んでいたので、よく潰れずに済んだな、とは思う。震源地近くだったら倒壊していたかもしれない。
幸い背の高い家具等はなく、腰高くらいの棚の上にあったオルゴールや、梁に渡してあった棚の上にあった数十個のぬいぐるみ等がが落ちてきた程度。

しばらくして、停電している事に気づく。でもすぐに復旧するだろう。復旧したらすぐに営業するだろう。だからいつも通りに出勤した。

出勤すると店は閉まっていた。当然だ。レジが動かないので(予備電源で決まったレジが約20分動く)金銭授受が出来ないから。出入り口を叩いて、店の中へ入れてもらった。

案の上、電気復旧後すぐ営業再開、という事で、着替えてスタンバっていたが、待てどくらせど復旧しない。あたりが薄暗くなってきていた。

安否確認の為に外にある公衆電話に行列ができてきた。店内にはまだこの頃公衆電話があったので、私も音信不通状態の実家にウン年ぶりに電話した。携帯は繋がりにくくなっていた。

夕方上がりの人が帰って行った。一人、子供の粉ミルクがどうしても欲しい、というお客様だけが、店長の意向で買い物していった。

一向に電気が復旧しない。情報が欲しくて、録音してエンドレスに流している呼び込み用に使っていたラジカセを用いて、情報を得るようになった。結構酷い有様のようだ。

日が暮れる頃、一旦家に帰りたいという者がチラホラ出てきた。私も落ちた物がそのままなので、少し片付けたいと一回家に帰った。そして私も自前のラジオ持参で又店に舞い戻った。

電気が復旧しないので営業する事もできず、又、冷凍物や生物がやばくなってくる、という事で、仕舞えるものはまだ効いている冷凍庫に入れ、氷で保冷、その上にダンボールや板状のトレー等被せて応急処置。

もう売れないから、という事で店で、手作りしているおはぎや餃子等を、お腹が空いた人は食べていいよ〜となっていた。

日もとっぷり暮れて、懐中電灯の光を頼りに動いていた。ナイトのメンツが何人か出勤してきた。聞けば少し離れたところの電気は復旧している、という。言われてみれば外の遠くの方は明るい気がする。

地震にあったらスーパーに避難しよう、そうすれば食べ物も水も手に入りやすい、そんな会話をしながら時を過ごす。

この頃には一通りの連絡が一段落し、繋がりやすくなっていたのであろう、彼(今の夫)から携帯に電話がかかってきた。不安ならば泊まりにくるか?と言う事だったので、その言葉に甘える事にした。

電気が復旧しないまま上がりの時間になったので、食べきれないほどのお弁当を貰って彼の元に行く。電車が止まっていたので彼の所に行くのに乗るバス停がある隣の駅まで歩いた。
電車は止まっていて、歩いて帰宅することにした人々の列をなして歩くのとすれ違う。そして先には光が煌々とついていた。

そうなのだ。電気が復旧している地域と復旧していない地域があったのだ。そして勤めているスーパー及びその近隣は復旧していない地域だった。

電車も少し先までは動いていたのだ。だから途中まで電車で来て、そこから帰宅する人々が沢山いたのだ。

隣の駅に近づくと、その周辺は電気がついていた。バスの運転手さんにバスは時間通りに運行していますか?と聞いたら怪訝な顔ではいと答えられた。管轄が違うから、歩いて30分くらい先の隣の街の状況はわからなかったのだろう。
おそらく信号機もついてなくてお巡りさんが交通整理していて、運行は大幅にズレていただろうから。

あの地震があったのが嘘のように時間通りにバスは発車し、街灯、信号機、店舗や民家に灯りがついている中をバスは走って行った。

後々知った事だが、勤めているスーパー周辺地域は一番電力復旧が遅くなった所だった。日付が変わる12時近くにやっと復旧した、とのこと。(もちろん震源地は別)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?