芯念を覆すのは至難の技

どんな人の中にも芯念があって(当人が気がついてないことも多い)それを軸として”明日も必ずくる”という絶対的平等と真実の元に行動を決定している。
実は真実というものは不都合な真実という言葉が示すように、それを求める人にとって都合のよいことばかりではない。
又、真実であることに変わりはないのでそれを覆すような言葉は見当たらず、よってそこを突かれた暁には返す言葉がない。

矛盾、ともいう。

例えば命は大事、と言いながらも、虫は殺したりする。そこに罪悪感等は持てなかったりする。(年に一度、慰霊祭を行うという殺虫剤を製造、販売する某企業の誠心は素晴らしいと思う。)

なんでこんな事書いたかというと昨今の”鬼滅の刃”ブーム。促されて只今とっちらかっている放映時間ながら頑張って視聴している。

ググってもみた(本当に便利な世の中だ)

続きは見たいかも、と思わない事もないが、ハマるとまではいかないのが私だ。

なぜ今、この漫画が流行るのだろうかと考えてしまう。

こんな話がある。
ある修行僧が二人、悟りを得て里へ下りた。
川があって、渡りたいのだが橋は無く、一艘の船と渡し守がいた。
一人の僧は川が汚れるからと船を使わず泳いで川を渡り、一人の僧は渡し守が飢えるからと船を使用し、賃金を渡したという。

どちらが正しいか、というとどちらも正しい、という。
あとの判断は己次第だという。

己の良心に従い、というやつである。

船を使ったものが渡し守が餓死してもよいのか、と責め立てても又、泳いで渡ったものが自然が破壊されると責め立てても相手の芯念を覆すのは至難の技である。

実は至るところに転がっている話であり、昨今の外出自粛、営業停止要請などもそうだろう。

実は鬼は鬼のままでいた方が殺す方は楽である。罪悪感に悩まされないで済むからである。鬼には鬼になってしまった理由がある、などと考えてしまうと途端に辛くなる。

が、それに気づくと今度は自分が辛くなるから、共感してくれる仲間を増やして「〜だよね〜良かった、私だけじゃない」と思うことで罪悪感を薄める。目をそらす。あるいは他責にする。
鈍感力、というものも、昔、流行った。

自分なりのフノオチドコというものを見つける。

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