昔のアニメなり映画なりを今再び鑑賞する、ということ

某局でタッチ、映画バージョン3本立て続けにやっていて、見てしまいました。

いやースローテンポの物語の展開に、あまり書き込まれていないスッキリした絵。今のアニメと全然違いますね。

知っているとしても、やっぱりカッチャンが亡くなるというのは衝撃の展開ですよね。主役級のキャラが、途中(というかかなり前半で)まさかの死亡です。キャンディキャンディのアンソニーの死、FF7のエアリスの死と衝撃度は同等です、私には。

やはりこういう入れ込みのあったキャラの死亡ってのは、近しい人、親しい友人、親近感持った人への喪失の疑似体験としていいかもしれないと、情緒教育のような事も考えたりして。

当時の私はひねくれていたので(今で言うところの中二病かも)南ちゃんみたいなヒロインにはなれない、脇も脇役、そんな人生なんだと思いながら見ていました。

今ですか?もちろん自分の人生の主人公は私、というか主導権は私で、私だけしかわからなし、私だけしか知らない人生、私しか通らない人生、だから孤独でもあるんだということを理解してます。

タッチの主軸のたっちゃんかっちゃん、南は高校生で、ほぼ同世代だったからどうしても同目線で見ています。

あれから随分経って、振り返る、年上から見える目線だから気づくことってたくさんあります。

たっちゃんが最後の投球前のマウンド上で「帰りたいよ、帰って風呂入ってご飯食べて寝たいよ、昔はそんな言葉が簡単に言えたのに」というようなモノローグがあります。

確かに物語上の三年前の、かっちゃんが生きていた時のたっちゃんなら簡単に容易に、それこそ呼吸するような自然さでこのようなこと言えたでしょう。

でもかっちゃんが亡くなって、代わりに自分が野球部入ってエースになって、南を甲子園ヘ連れて行くという約束を果たす立場になってしまった今は、言いたくても言えません。

今更ながらここにもう一つの意味を見出してしまいました。
それまでは努力だとか、人のために何かを成し遂げるだとか、そういうめんどくさいことは、かっちゃんに任せて自分は逃げていたんだな、という事に気がついた、たっちゃんの成長の証としてのセリフだったんだなと。
だからこの後、たっちゃんは堂々と南に告白できたんだなと気がつきました(遅っ)。

最後に、後半の主題である柏葉監督との対決?ですが、あんな高校生に気を使わせるような大人は嫌だ、というのが率直な感想。やはりあまり好きになれないのが、あまりこのアニメハマらなかった理由かも。

それから、柏葉監督そのものは今は絶対NGだし、うさぎ跳びは鍛錬としては無意味、むしろマイナスで今は禁止にもなっているってのはやはり時代ですね。

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