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典子伝 —『典子昇天』— 2022/12/7

「死んだんですか」タオルで汗を拭きながら男がのぞき
込んだ。三日前にそこの岩風呂で会ったんですよ。
「ロミオ。」手鏡の中を落下する二人を恨めしそうに眺
めていた、おしろいの女。肉屋に売っちゃうんですか。
つきつめれば皆それなりに神の御国を築く為の一つの石
になるのですよ。やはり女の腰と男の腰を結んでいた
紙の紐、それが空中で切れず、海中で溶けず、今海岸の
砂の上で白々と粉のように小さな粒となって分解して行
く。
 典子はやはり救世主であったのだ。彼女が埋められた
墓石の倒れた処から海岸へと深々と人間の足跡が続いて
いた。そしてここから彼女は舟に乗って沖へと漕ぎ出し
たのだ。そのときの光景を見ていた弟子が一人いる、そ
の者に昨夜の出来事を残らず話してもらおう。確かに私
は見ました、典子様は砂丘の向こうから突然現れて、こ
の浜辺へとまるで滑るように、まさに空中を流れるよう
にやって来られた。それで私の前にぴたりと立ち止まら
れて言われました。
「恐るるな、我なり」。

典子は弟子のさげていた竹かごの中から秋刀魚を一匹
取りあげて頭からバリバリと食い出した。半魚人の眼を
思い出します、まんまるに開かれて遠くを凝視していた。
それは事実なのですか、典子様が鰯をむしゃむしゃと続
けて三匹も食べられたと言うのは。空には銀色の物体が
斜めにジグザグにそして停止し、交霊師の女が神の意志
を伝える冬の日に、野アザミの葉は絶え間なく伸びて行
く。そうです典子様は海の魚を総て飲み込まれ、次に天
に向かって吐き出され、その魚たちは魚座の方角へと飛
去ってしまった。

典子、もう起きなさい。そして背の羽を洗わなければ。
昇天の時が来たのね。私に出会った人々は必ずいつの日
か神の子である自己の本質を知る事でしょう。そして私
を知らない人々も必ず、次の御子によって神の啓示を受
ける事でしょう。それまでの救いの無い日々を彼等は不
幸の内に過ごすのではない。その間に彼等は人間になる
のです。呪われた罪人になるのです。「けれど典子、彼
等は救われるのでしょう?」。そうよ、彼等の方こそ真に
回心の時を手にするのよ。回心のあの魅惑的な瞬間を本
当に味わうのは、罪深い彼等なのですよ。羽は白くなる、
白き羽を広げて私を見る典子。
 
「さあ行きましよう、天に向かって」。
わたしの中にあなたを創造するわ。私の中であなた
はイエスになるのよ。そうだ君の中で私は新しく生
まれ変わるのだ。空の空、空の空のその中で君は新
しい男を生むのだ。私の存在がザーメンとなり、君
の子宮の中へと飛翔するのだ。青い天球に向けて、
ザーメンが飛び上がって行く。雲を突き抜けて、青
いその成分の中に溶けて行く。
典子は昇天する。
典子は昇天する。