現代詩の世界2022/5/13『世界創造』
神の自己否定による「世界の創造」とは、永遠のものが「時間性の中へ」あらわれることである。物質は永遠のものではない。しかしまた宇宙時間の中では、「永遠に近いもの」として存在する。
そしてまた「自由度」という点では「最低のもの」として存在する。すなわち物質は「法則によってしか」動くことができないもの、として存在する。
そして物質は「自覚しないもの」と定義することもできる。
神の自己否定によって「宇宙が始まり」、物質が法則によって運動・展開し、恒星・惑星・衛星が生まれることは、時間性の中で神が「自己否定の創造」を成すことである。人間の誕生以前の宇宙に於いては、存在は「自覚のない存在」である。また法則のみによって展開する世界とは、「自由のない世界」である。
このような世界に「生命体が誕生」し、進化し、何度も絶滅し、また新たな進化を進めることは、神の自己否定の創造が「目指すもの」として、「自覚するもの」そして「自由なるもの」を想定しているからである。このことは「神の目的」という言葉であらわすものである。
時間性の中で「人間」が誕生し、人間が自覚と自由を実現しようとすることは、「神の目的」の本質と言える。
それでは「個々の人間」は何をもって「神の世界創造の本質」と一致することができるのであろうか。
その第一は「場所性」である。我々は「場所的存在」として「限定されている」。それは「肉体」を持ち「脳」を持ち「手足」を持っていることによって、この肉体という場所からしか、運動できないという「限定」を受けているということである。よってわたしはまずもって「このわたしの身体」を愛さなければならない。
その第二は「時間性」である。我々は限られた時間内しか「この世界」に存在しない。そして時間とは常に「神の時間」である。その神の時間の内部にあって、わたしは「世界を愛する」ことを要請されるものである。すべての時間に於いて、人間であるわたしは「存在を愛する」ことを自身に要求するものである。
第三には「自覚する」ことである。わたしが生きてあり、わたしが世界と共にあり、わたしが世界を愛しており、そのことによってわたしが満たされていることを「自覚する」ことである。わたしは「自己の感覚」によって何が正しいかを判断するものである。そして自覚するわたしは、世界の基準として常に「自覚的に行動する」ものである。その行動は『神は愛する』という事実を実現するものとしての「自覚の基盤」である。よってわたしの「自覚」は根源的絶対の神からの要請である。
そして第四には「自由である」ことである。神は「自由である」。そのことが人間に於いて「実現される」。我々の自由は神から与えられた「基本的要請」である。神の自由を根拠として人間の自由が成立する。自由性とは人間性であり、それはまた「神性」でもある。自由はそれなくしては、人間が人間ではなくなるもの、である。よってわたしは「自由を求める」。しかしまたこの自由は自覚的自由であり、愛する自由である。「場所と時間」の内にあり、人間の自覚とともに神の愛を知る自由である。
神は世界を創造する。それは一時も休むことなく続けられている。その神の世界創造の内部に「地球」は存在し、「人間」は存在しているのである。