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私のおじいちゃん②

母方の祖父が亡くなった。あと数日で91歳になるところだった。急に容態が悪くなってしまい、最後に会うことはかなわなかった。バタバタと通夜と告別式を終え、空港でふと時間ができてしまったのでこれを書いている。

私のおじいちゃんという別の記事では、父方の祖父がいかに堅実で誠実だったかという内容を綴った。では母方の祖父はどんな人物であったか。せっかくなので振り返って残しておきたいと思う。

亡くなった祖父の名前はヒロト。九州の田舎の農家の生まれで、大人になってからは製紙会社に勤め、東北、関東、九州と住む場所を転々とした。性格は‥‥‥頑固、豪快、短気、酒好き、頭が固く捻くれ者で融通がきかない、典型的な昭和の男。死ぬまで昭和を貫いた爺さんである。
元気な頃は毎晩焼酎を飲んでは大声を出し、訪問販売だか営業だかを玄関で怒鳴り散らして追い返したりしていた。テレビに映る芸能人ひとりひとりに『なんやこいつは』『顔が悪い』『やかましい』とご丁寧にコメントをつけていた。よく私と兄を連れて、自転車でスーパーや本屋に連れて行ってくれていたが、私が自転車の後部座席で車輪に足を挟まれて大泣きしたときは『泣くな!!!』とキレられた。まぁまぁの理不尽である。
そんな祖父の行動に辟易とする祖母の姿をよく覚えている。酔っ払って寝床についたと思ったら、寝室から『オイ!!●●(祖母の名前)!!!!』と絶叫が聞こえるので、祖母の方をチラリと見ると『無視よ、無視』と遠い目をしていた。どうやらあれは寝言らしい。祖父が祖母に優しくしている姿はついぞ見たことがない。殴ったりといった暴力は流石になかったと思うが、それ以外の家庭内暴挙スタンプラリーはすべて済ましていたと思う。離婚したかったけど(経済的な理由で)できなかった、という話をよく聞いていたし、だからこそ祖母からの教えは『女でもとにかく一人で生きられるくらい稼がないとダメ』だった。墓を買った時は『(祖父が死んだら)この墓の横の小高い丘のところでピクニックしよう』と意気込んでいたし、しまいには『一緒の墓に入りたくないから、ヒロトさんが死んだら真ん中についたてを立てて骨壷を並べて。左右に並べるんじゃないのよ、扉と並行についたてをして、ヒロトさんの骨壷は奥に置くのよ』と言っていた。ヒロトさんが死んでしまったので、骨壷配置問題については絶賛検討中である。(奥側はあまりにもあまりなので、斜めについたてをするのはどうかという案が出ていた)

そんな頑固なおじいちゃんは、祖母がたったの64歳でこの世を去ってしまった後、みるみる弱ってしまった。夕方になると、広々と肌寒い座敷の仏壇の前でうなだれ、お鈴をならしていた。弱々しく祖母の名前を呼んでは、ひっそりと泣いていた。そんな祖父に対し、生きてるときに優しくすればよかったのに。と少し突き放すような気持ちもどこかにあった。
わたしは、だんだんと弱っていく祖父を見るのが嫌だった。あんなに体が強くて力持ちだった祖父が、足腰が弱くなりよたよたと歩く姿を見るのが嫌だった。まともに歩けないから肩を支えているのに、『触るな!いらん!』とブチギレられるのも嫌だった。家を訪れると、炊飯器の中で1週間前に炊いたお米が黄色くなっているのを見るのが嫌だった。施設に入るとだんだんと認知症も進んで、わたしの顔もわからなくなってしまった。自己紹介をすると、私を見て『美人がおるなぁ』と言った。そんな言葉が聞きたいわけじゃなかったんだけどな、と思った。わたしもおじいちゃんと同じだ。おじいちゃんが老いて変わっていくのを受け入れられなくて、優しくできなかった。

祖父のいる施設は実家の近くにあった。よく働きよく稼ぐ人だったので、お金の心配は何もせずに、条件の良い施設に入れてあげることができた。母は足繁く施設に通っては祖父に話しかけ続けた。いつ行っても祖父はブスッとしていて、やっぱりテレビの芸能人に文句を言ったり、母に文句を言ったり、職員さんに文句を言ったりしていた。よく母は『昔を思い出すかも』と『ふるさと』とか『我は海の子』とかの唱歌を歌ってあげていた。大抵無視されていたが、たまにボソボソっと口を動かして呟いていた。もう何も分からなくなってしまったけど、どうか穏やかな時間を過ごしてくれれば、とだけ思っていた。

葬儀には私たち家族と、叔母家族も集まった。
『死んだら、優しい人みたいな表情になったわね』とか散々言われていた。甥っ子(1歳)が来ており、僧侶の入場時に渾身の拍手を披露したり読経中は木魚に合わせて踊ったりしていた。親戚みんなが甥っ子にメロメロになって、お別れもそこそこに甥っ子とたわむれているのを見ると、あぁ世代が変わったんだなぁとしみじみ感じた。おじいちゃんはまぁ性格には多少難があったけれども、真面目によく働き娘ふたりを立派に育てた(育てたのは多分祖母だが)。その娘ふたりは子供を3人ずつ産んで、孫は6人になった。いまのところひ孫は3人いる。90歳で大往生して、まぁ色々あったけど頑張ったね、って見送られて、これから先もたまにじいちゃんを思い出す。そしてこれから先は、新しいいのちたちが時代を繋いでくれる。やっぱり、次の世代を生きるいのちこそが、おじいちゃんがこの世界に生きていた証なのだと思う。

わたしを孫とよぶ人はもう誰もいなくなってしまった。じーちゃんの自転車でスーパーに行って『りぼん』を買ってもらうことも、ばーちゃんがストーブで焼いた餅を食べることも、もう全部思い出になってしまった。でもあのときの思い出がときどきわたしの中に甦って、心の中を少しだけ優しく撫でてくれる。

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