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映画『ゴジラ-1.0』と集団浅慮について

『ゴジラ-1.0』いや、最高に面白かったんですよ。VFXなんかものすごくて、エンドクレジットで白組の文字が浮かび上がってきたときは脳内スタンディングオベーション。よくぞここまでのものを作ってくれたと。

すべてセリフで説明しすぎという批判をしている人も多いけど、個人的にはこの映画とこの時代背景の中にあっては自然なバランスだったのではないかとおもう。
雨に降られて家に帰ってきた敷島の「ちくしょう、ずぶ濡れだ!」とか普通なら噴飯ものの台詞というか、言わんでもわかっとるわいとみんなでツッコむ所なんだけど、今回は気にならないどころかいいねえ戦後だねえ、とニヤリとしてしまう自分がいた。
隊長(佐々木蔵之介)のオーバー気味の演技も全然どんどんやってください的な心地よさで見守っておりました。

あとは水島(山田裕貴)のキャラクターも良かった。
戦争を経験していないことへの劣等感を持ち、戦争へ憧れを持つ男。今の感覚からは信じられないことだけど、命に対する価値観がまるで違う当時だったら確かにいただろうな。

特攻から逃げたこと、島でゴジラに襲われた時にミサイルを撃てなかったこと、生き延びて東京へ帰ると家族全員死んでいたこと。
自分ひとりだけが生き残ってしまった、死に損なった、そんなPTSDを抱えて生きる敷島。
皆が生きようと思っている時代にひとり死を願っている表情のなんと苦しいことか。

とまあ基本好意的に前半は観ていられただけに、あの元軍人を集めた作戦会議あたりから後半は本当に残念だった。
フロンガス?水圧?浮き輪?あんな杜撰な作戦で本当に倒せると思っていたのだろうか。すべてがうまくいかない可能性が非常に高く、万が一うまくいったとしても効果があるかわからないあの作戦に全員でフルベットしたあのシーンだけは本当に解せない。

そして、その作戦を思いついた唯一の専門家野田(吉岡秀隆)は言うのだ。
賛同できないものは帰ってよい、一緒に賛同できるものだけ残れと。
これはまさに集団浅慮への呼び水である。
場の空気や同調圧力に流され、判断能力を失い誤った結論へ向かってしまうのだ。

そして実際に立てた作戦は失敗に終わる。
そこから民間の船がなぜか大量にやってきて・・・のくだりはもうカオス。
ボランティアという言葉の意味をはき違えたタダ働き推奨、根性論礼賛、の映画になってしまったと個人的には感じた。

これは戦時中の一億玉砕、竹やり作戦と何が違うのか。
特攻ではない、全員生きて帰る、と口では言う。
あそこに残った男たちは”自分の判断”でここに残り、”自己責任”で作戦に関わった人たちだ。
いや、本当にそうだろうか?
確かに誰かがやらねばならない仕事ではあるのもわかる。
犠牲を伴わない解決方法などなかったかもしれない。
しかし、志願兵の彼らは逃げ道を閉ざされ、外堀を埋められ、そう思わされているようにしか、僕には見えなかった。

『シン・ゴジラ』が官の力を結集し組織の力でゴジラを凍結させたのに対し、本作は官の力はどこにもなく、どこまでも民間による自己責任。
表面上はいいことを言うが皺寄せは現場だけで上層部は何もしない。
最後はみんな生きていたのだから結果オーライ、でいいのだろうか?

そういう意味では、2023年の日本をそして世界を的確に切り取った作品という評価もできるだろう。最高に面白い!という賛辞ともやもやとした感情が同居する感想でした。

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