『悲しみの秘義』若松英輔(9)【原民喜の小さな手帳】
原民喜は教科書で習った。原爆の詩人、という印象が残っている。でも、詳しくは知らない。
若松さんは広島を民喜の遺族である原時彦氏と民喜研究者の竹原陽子さんと歩いた。2015年、戦後70年を迎えた年のことである。
その際に時彦氏が「今日は民喜もいっしょに来ております」と言って、リュックから取り出した箱に入れられた黒い小さな手帳は「原爆被災時のノート」と呼ばれ、のちに遺族から広島平和記念資料館に寄託される、大変貴重な資料であった。
原爆投下の翌日からの手記で、当時の惨状が淡々と書き記されている。それは、悲しすぎて淡々とならざるを得ない現実を物語っている。涙も枯れ果てて……という心境だったのだろう。
「悲しみは、自己と他者の心姿を見通す眼鏡のようにも感じる。悲しみを通じてしか見えてこないものが、この世には存在する。」
若松さんの悲しみの深さを知ることができる文章だと思う。静かだが、とても力強い。「悲しみを通じてしか見えてこないもの」という部分が優しく癒してくれる。悲しみは「見えてくる」だけでなく人を「強くする」と僕は思う。
高校時代のサッカー部の主将がタミキさんという名の先輩だった。主将だったがレギュラーではなく、入部したての僕は不思議に思ったのだが、個性的なメンバーをまとめ上げる人徳が彼にはあって、試合に出れなくても練習では先頭に立ち、決して腐ることなくチームを引っ張る姿を目の当たりにして、レギュラーでなくても主将を任される理由を理解した。あの時も、どこか原民喜と勝手にイメージを重ねていたのだが、本章を読んでタミキさんを思い出した。優しくて強い人で、後輩にも丁寧に接してくれる人だった。
あの時は、あまりにも颯爽としていたから気づかなかったのだが、頑張ってもレギュラーになれない悔しさや悲しみがあったに違いないし、それでいて主将を任されることに悩んだ時期もあったことと思う。だからこそ、より強く優しくなり、多くの部員から慕われたのだろう。
原民喜と若松さんの不思議な接点を読みつつ、僕は違うタミキさんを思い出している。彼が卒業してから一度も会ったことはないし、それほど親しくさせてもらっていた訳でもないのに、これほど強く記憶に残っているのは、とにかく素晴らしい人柄だったからだと思う。
若松さんにとっての民喜と同じように、僕にとってもタミキさんは心の支え(目標)だったのかもしれない。そんなことに、ふと気づいた。