小学校5年生の思い出。

クラス発表がされた瞬間から、嫌な予感はしていた。あまりおしとやかな学年でない私たちの代の、「その中でも派手な人」が異様に多かった。担任は若い男性だった。声が大きいのに加え、心地の良い響きではなかった。挨拶をしていたときの彼の笑顔が私はどうしても苦手で、この先に不安を感じた。

正直に言うと、私は小学校5,6年での経験はほとんど無いに等しい。卒業したのと同時に頭の中で全てを無かったことにしようと努力したから。それくらい、いい思い出はなかった。

時期は夏、私は担任に嫌われた。担任は派手で自分に懐く子供が好きだったのだから仕方がない。私はそのような行為を一切しなかった児童なのだから、とその運命を甘んじて受け入れた。授業中にみんなの前で怒られることが増えた。手をあげて発言することが少ない私を1人だけ残して、クラス中に手をあげさせ「最後の1人」を許さなかった。当時愛想笑いとノリの良さだけでそこそこ人気を手に入れていた私の人間関係は、道徳と称して皆の前で否定された。極めつけは個人懇談での出来事。懇談が終わるのを廊下で待っていた私に、母は深刻な顔で教室を出てきてこう言った。「盗んだものを全て返しなさい」。担任も出てきて補足をした。「怒らないから、クラスのみんなから盗ったものを今すべて出しなさい」。この頃クラスで起きていた、複数回にわたる盗難事件のことだとすぐわかった。私は何もしていない。犯人はその後すぐ見つかった。私に宛てた担任の発言に、証拠は一切なかったのだ。担任は後から私を呼び出して謝った。けれど私は忘れていない、担任はこうも言った。「だって、盗みそうなのはあなたしかいなかったから」。

母の話をしよう。私の母は変わった人だ。世間的な目を気にして、我が子の行動も制限したがる。学校を休みたいなどと言えるはずもなかった。一度それを言えば、母は猛烈に心配をする。眉尻を下げ、頭を抱え、興奮して、悩む。そして挙げ句の果て娘に言ってしまうだろう。「どうしてここまで私を困らせるの?」。私の母は、私の唯一の家族はそういう人だ。

学校を休めず、かと言って無断でサボる勇気もなかった私は結局この1年間学校に通い続けた。毎日吐いた。吐いて、吐きまくって、それでも行き場は学校にしかなかった。保健室登校をすれば家に電話がいってしまい、それでは私にとって意味を成さない。担任の悪意は自然と子供達に伝染する。ある意味当たり前のことだ。担任に見えないところでの悪質な嫌がらせが増えた。ただしクラス全員を下に見ていた私にはこれは気にならなかったが。それでも別に隠れてやる必要はなかったのだ。どうせあの担任は止めなかっただろうから。

私はこの年、無表情でいることが多くなった。おもしろくない一年だったし、毎日吐いたあの喉の感覚も今でも忘れていない。6年生になって状況が一転するのをひたすら待っていた一年だったのだ。

そして私は今も尚、あの5年4組の担任だけは記憶から消すことはできない。それまで含めて彼の思い通りだったのではないか。あり得ないと判っていながら、けれどふと思うことがある。


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