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「自分」が失われつつあることに気づいた話

私が読書をするとき、特にちょっと難しめな本を読むときって、ほとんどの情報を本から初めて得ることになるので、読む側からすると内容を余り疑うことをせずに「そうなんだ〜・・・」と読み進めることが多いです。

ただ、これではいかんと。最近思うようになったわけです。

「コンヴィヴィアリティのための道具(イヴァン・イリイチ)」という書籍の解説サイトに気になる記載が有りました。https://www.surface-arch.com/pcf/?p=287

【産業化が進むにつれて、交換価値をもつ諸活動は専門性を高め制度化され、交換価値を持つものだけが「労働」とされた。その結果、例えば医療では、医師という専門職により医療手段が独占された。さらに、医師の訓練期間が長期化することにより、医療サービスの希少性が高まり社会成員の医師への依存、という構造ができあがる(以前は、呪医、民間医が効果的な処置を行っていた)。進歩は依存の増大ではなく、自己管理能力の増大を意味するはずであるのに、医療の対象拡大と公に保証された品質への過剰信頼から、人が本来持っているはずの治療者となる能力は不能化する。さらに、自分の体にも関わらず主体性を失い、人々がその管理に関して無関心・無責任となり、全面的に医師任せの思考停止した状態、文化的医原病が発生する。】

そもそも医原病というのは【医療行為に起因する病】のことです。ここにある「文化的医原病」という言葉ですが、もう自分には理解が到底及ばないブラックボックス化してしまった分野や事実や仕組みを自身で理解しようとすること無く、その専門性に長けた人に任せていれば大丈夫だろう、という「思考を放棄した状態」と考えることが出来そうです。それが自分の身体のことであっても、自分よりも「身体」というものを知っていると「疑っていない」状態で、医者へ我々は罹るわけですが、ふと、その考えが【自分の思考】に及んでしまった場合、いよいよ自分というものが無くなってしまうんじゃないかと思った訳です。

知らない分野や現象事象を「1データ・1情報」として捉えることができるような方であれば何も問題ない事でしょうけれど、それらしい根拠やデータを一緒に提示された状態での発言者の言葉を、どうも私は鵜呑みにしてしまいやすい、というか、頭ではわかっているつもりですが、ほぼ鵜呑みにしています。それが正解なんだと、思ってしまう訳です。そしてそこに自分の意見は無く、考えることを放棄しています。読書をしているのは紛れもない自分なのに、その行為の中に「自分」というものが無いんです。

「何故そうなっているのか」を考えない。この論調は昨今のコロナ禍でも、反ワクチン派から強く主張されていると思います。一部過激な方々もいらっしゃるようですが、一方では自分の中で考えうる根拠有る揺るぎない意思や意見を持たずに情報を得ようとすると、思考停止から始まる文化的医原病に陥りやすいのでは無いかと思いました。

自分の中にまだ無い【根拠】を形作るため、既に有る【根拠】の幅を広げたり確実なものとしていくための情報収集としての「読書」は必要ですが、答えとしての根拠を求める「読書」は自分を失くす行為になるのでは無いかと思う訳です。

だから、自分ではない外部から得られる情報そのものに正解を求めるのでは無く、その情報を正解だと感じた自分の意思を言葉やイメージで具体化していく事が大事なのかなと。それって悪い意味で無心で読書をやってると忘れちゃうんですよね。

それがプロパガンダを扇動させるような行動につながって問題になるとマズいですが、無意識的に思考を閉ざし、いつのまにか社会や人間の理想みたいなものも含めて全任せの服従的な人間にだけは成らないようにしないとな、と思った今日此の頃です。

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