心を考えていると海に出た小話

突然だけど、これを書いているとき、わたしは死にたい。

はじめに、
どうして死にたいか
どうしてつらいのか
について、ここで直接言語化する気力はない。「わからない」し「思い出せない」からだ。もちろん、状況を他人に事細かに話せば、客観的経緯はわかるかもしれない。実際私も、何度も人に話してきた。

信頼のおける(当時の)友達、
学校のカウンセラー、
教師、
精神科医、
両親。

頼れる人を自分なりに探して、話してきた。
でも、困ったことに彼らは誰一人として「私」ではないのだ。だから私の感情を、「理解しようと努力(エアプも含む)」は出来るが、「理解して、共感」はしてくれない。困ったことに心が病むと、理解されない自分を嫌いになり、ついには理解してくれない周りを嫌になるので、身も心も孤独になる。
こんなことなら当時から事細かに記録をつけておけばよかったな。

……と思っていたら、1年と少し前に同じ状況になった時の下書きがあったのを見つけた。21歳の私がそこでも悲鳴を上げていたのをさっき見て、今の私はゾッとした。そうして本格的なうつ状態になった。
それから約半年後に「適応障害」と診断を受けたあの日を思い出す。さらにあれからなにも変わってないどころか先月の一件以降ますます悪化した自分にも嫌気が差す。
これはいけない、と、そうした経緯で慌ててこれを書いている。

ですのでこの文章が、

「毎日が辛い」
「心が重い」
「しんどい」
「生きていたくない」
「生きることに疲れた」
「消えてなくなりたい」

と思っている方、またはそんな人を身近に知っている方に、1人でも届けばいいなと願って書きます。
要因は十人十色ですが、もしかしたら、同じような気持ちになっているんじゃないかな、
そしてその気持ちって、たぶん言葉にするの難しくて漫然ともやもやっとしてしんどいんじゃないかなと思って、私自身も自分の精神状態の記録のために綴ります。この文章は、私の「死にたい」はこんな感じですという紹介です。
長くて長いですが、良かったら読んでみてください。

全然関係ないけど、文章、前より下手になったなあ。



私が思うに死にたいという気持ちは、おそらく人間が抱く感情の中で最も重くて深い感情だと思う。
それは深海よりさらに深い、超深海みたいな思考状態にいる。光はない。呼吸はできない。なにがあるかもよくわからない。未知で、不可解で、究極の静でいる。

死という現象は、地球上に存在するあらゆる動物に起こる。
植物は死んでいるというより生を更新している感じがするので、死ぬときは種の死だろう。植物は死んだではなく枯れたというのも、そういうことなのかもしれない。知らんけども。

ところが、全生物が死を経験することだけが全生物の共通点であるにもかかわらず、生物は誰も死を経験したことがない。



時々テレビやネットで、

「前世の記憶があります」
「死後の世界を見たことがあります」
「降霊して亡くなった人が今どんな気持ちか、代わりに伝えます」

みたいな映像を見るが、死にたいと思うまではそういったスピリチュアルなものをすべて胡散臭いと思っていた。

だって目に見えないんだから、信じようがない。

これは間違ってないと思う。幽霊が見えない人は、見られないのだから信じられない。

見える人にだけ見えるというのは、一般的でないので、コモンセンスにはなれない。
当時のマルコ=ポーロやガガーリンのように、実際に死んで身を焼かれてなおこの世界に戻ってきた人が『ぼくのあの世旅行記』でも執筆して、この科学と数値で盤石な価値を築いた現代社会を納得させるまでは、人は死後の世界を信じないだろう。

あるいは頭の良い人が頭の良い研究(語彙力)をして、コペルニクスも拍手したくなるような転回を見せるか。でもこれは難しいだろう。死後の世界を研究するためには、どうしても『ぼくのあの世旅行記』が資料として必要になるからだ。

閑話休題、
人はみんな最後に死ぬ。
みんなわかっている。だけど誰一人として死んだことがない。だから基本的に死という現象は、生きている人にとって漠然とした恐怖をもたらす。誰も知らないから。

ただし私にとってこれは「死」にたいして一番ライトな考え方だと思っている。
死にたい気持ちを深海で例えたが、心の世界を海に例えるならまだそれは海水浴場の遊泳エリアくらいだと思う。ビキニでも行けるレベルだ。海嫌いだからビキニ着たことないけど。


例えとしてちょうど良いのでこのまま海を例にして記録を続ける。

まず前提として、
いわゆる「うつになりにくい人」というのを主観的に見ると、心が常日頃ビーチにいると思ってほしい。私は人生で最後に海に行ったのが小学3年の白浜だったので、今記憶を総動員して白浜を思いながら書いている。

想像してみてほしい。ビーチがどんなところなのか。

ビーチというのは総じて楽しくできている。そして何より常に人がウジャウジャいる。

ビーチとは刺激に満ちているのだ。

言い換えると、心が常に刺激に満ちている人は、うつになりにくい人となる。

この「刺激」とは、「ストレス」とも言えるが、良い意味でも悪い意味でも満ちている。
肝心なのは、良い意味の刺激があることだ。深海生物である私からすると「ストレス=しんどさのもと」とつい穿ちがちだが、そうじゃない。

心が病まない人、病みにくい人は、いつも心のどこかに良い刺激を生む拠り所があるのだ。食べ物やお酒、恋愛や趣味、推し、あるいは行楽……そうした、生きる喜びを絶えず持っている。その結果、他のところで落ち込むことがあっても、リフレッシュさせる場所があるから、自然と心が落ちていかない。

実際ビーチに行ったって、
暑いし、人多いし、なんか磯臭いし、砂浜は鉄板か?ってくらい熱いし、時々割れた貝殻足裏に刺さって痛いし、女引っ掛けたいだけのグラサンにド派手な海パンのヤンチャボーイ集団は怖いし海岸は混んでるしそもそも海冷たくなくてほぼ海水浴場って温泉の方の浴場?ただ人間たちの欲場?ってなるしクラゲめちゃめちゃ浮いてるし……(以下略)

と、本気で涼むなら近所の旅館でまったりしてたほうが5000万倍快適な夏を過ごせる。
それでも楽しいところがたくさんあるし、何よりそこへ行くことこそに意義があるのだから、ビーチは存在するのだ。



そんな人の賑わうビーチから、沖へ出て行って戻れなくなった人がいる。

死にたくなった初期の私である。

なだらかなビーチと、果てしない大洋の狭間には、もの凄い勢いの海流が発生している。

その海流に呑みこまれたら最後、再び自力でビーチへ戻ることは難しい。


心が病む初期から、身体への影響が出始める頃というのは、そんな感じだった気がする。
心のどこかにトゲみたいな、しこりみたいな、だけど穴が空いたような、胸が押さえつけられているような、そんな気持ちが生まれて続くようになった。言葉にするなら「しんどい」気持ちで、生活としては「身体がだるくて、朝うまく起きれなくなった」。その頃の理由は受験によるストレスだったと思う。
時々心が漂うことに耐えかねて、もがいて暴れ出した。意味もなく涙がこみ上げて止まらないのだ。

理由があって、私はしんどいはずなのに、その理由をいざ人に説明しようとするとうまく言葉が出てこなかった。
「理由は一つじゃないんです。いくつかあるんですけど。でも、それだけじゃなくて……」


こうなるともう涙が溢れて、なかなか前に進まなかった。脳にとっては得体の知れない爆弾のような衝動を搭載した感情を処理するには、涙を流しておくしかなかったのだ。

結局涙がひいてどうにかこうにか言葉を並べても、伝えたいことの1割くらいしか言えてないし伝わってないような気がした。

「新世紀エヴァンゲリオンって実際のところなにを伝えたかったんだろう」みたいな。
気付いたら「逃げちゃダメだ」と綾波レイが微笑んでるところの記憶だけが残るみたいな、もっといっぱいあったはずなのにその間のストーリーがポカンと抜け落ちてしまう現象が起こった。


そしてこの初期段階でうまく人の助けを借りて心のビーチへ戻れなくなると、いよいよ大変なことになる。心が。

海で例えたら、海難事故である。
ビーチでは仲間がいたとしても、海流に巻き込まれた時点で離れているだろう。

つまり、果てしない思考の海に、一人ぼっちで放り出されるのだ。
それもビキニ/海パンのみで。
ほぼ裸一貫で、気づいた頃には太平洋を東へ東へ流れていくと想像してほしい。

心はどんどん流されていく。
心の話なので、サバイバルは不要だと思っているとそれは違う。
海の上に漂う心は、生きているのだ。

ずっと自分の悩みについて、向き合っているし、頭で考えているし、辛くて苦しい気持ちにずっと耐えているのだ。
それに心だってお腹は空くのだ。栄養がなければ、身体はもちろん、脳も働かなくなり、それはすなわち心の機能の低下にもつながる。

私の場合、大学生活の間、元気な時もあった。ご飯も三食食べ、眠れていた。遊びにも行った。バイトもした。
でも定期的に、自分の精神状態が不安定なまま大学生になってしまったことをどこかで自覚していた。心のどこかは、いつもぽっかり穴が空いたような気持ちになって、遊んでいても空虚に思っていた。
それが時々爆発して、メンタルクリニックを訪れようとしたこともあった。だけど、私は親に自分の精神状態が不安定であるとどうしても言うことができず、未成年の間は行くことが難しかった。(事情については伏せます)

少しずつ心が沈んでいく。
息をする体力を失った心は、やがて水面で呼吸することをたえかねて、海の中へと沈み始めた。

心が一度病むと、自分の心が自分の理性でもわからなくなる。
自分がこの先どう生きていきたいのか、わからなかった。

私は、時々ゆっくり、時々いきなり、心が沈んでいった。
それは親との諍いや、バイト先の人間関係、学校生活、色んな場面で起こる悪い方の「ストレス」が関係している。
「ストレス」が空から直接心に降ってきて、心を強く沈めさせていくのだ。


ただここで、再び海面へ浮上する場合もあると思う。

自分に合うカウンセラーや精神科医、あるいは周りの人の助けが入る場合である。
遭難した心を、誰かが見つけてくれた場合である。心の海猿と言っても良い。

しかし海猿と出逢える人は、まさに幸運だと私は思う。海猿はドラマなのだ。みんながみんな、助けに来てくれる人が伊藤英明とは限らない。

私は誰にも掬われず、結局はゆっくり光の見えないところまで沈んでしまった。光にむかって手を伸ばそうとしたが、だめだったし、その手を伸ばす力さえもう心には残っていなかった。

最初に書いた通り、私はいろんな他人に自分の心について相談してきたが、残念ながら自分の思うような結果にはならなかった。私にも問題はあったとは思うが、今となってはどうなのかはわからない。



さて、
心が深海まで落ちてくると、いよいよ心が死んでくる。

人類が知らないことのうちに、海の問題もある。実際のところ人間は水深約12000mまでしか到達したことがなく、海の本当の海底にたどり着けたことはないらしい。(ミリしら)


心は沈みながら、「どこまでも沈んでいく自分の心にさえ怯える」ようになる。

何も考えられないし、自分のことがどうとか、自分がどうしたいかより、『人生こんなにも苦しんできたのに、私はまだこの先も苦しまなければならないのか』『まだ私は生きているのか』『どうしたら死ねるのか』という、いよいよ「死と私」という前述の通りどうやったって答えのでない究極の思考回路に侵入していく、

念押しのために繰り返すが、
死は、
どれだけかんがえても答えは見つからないと私は思っている。

人類が
海底に触れたことがないように、
宇宙の最果てに行ったことがないように、
一度も平和を知らないように。

それでも、ここまで心が沈んでしまうと、人は考えてしまうし、無意識に死を意識するのだ。



不意に、感情が爆発を起こす。
ショートするように、頭の奥でパチンと弾ける音がして、一気に死にたいが爆散する。










この下書きから約10ヶ月が経過した。

私はまだ生きてる。しぶとくも、図々しくも。

慎ましくも、密かにも。

10ヶ月が経っても、まだ私は心の深海にいる。

多分このまま圧死するんだと思う。

もう、近づいてるのがなんとなく予感できる。



もうちょっと論理的に文章が書けるようになったら、私の人生哲学として総括したい。


現場からは以上です。








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