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英語はなぜ難しいか?(特別編)

 しばらく記事を書いていなかったが、再び書き始めることにした。なぜ記事をお休みしていたかは本記事の内容と密接に関わっているので、本文をお読み頂きたい。とりあえず、ご無沙汰してました‼️


 さて、今回は「英語はなぜ難しいか?」シリーズの特別編である。私自身がこの10年間悩み続けていたこと、この1カ月で一気に出来るようになったことを紹介する形式をとる。それが、本記事で伝えたいことを最も分かりやすく伝えられると判断したからだ。読者である貴方には、それを念頭に置いて本記事を読んでほしい。

 まず、いつものように結論を述べる。「言語学習は音声から始めるべきである。文字の読み書きや文法は、音声を捉えられるようになった後に学ぶことである」。

 ただし、今回は、「結論を読んで理解できる人は、ここでお引き取りください」とは言わない。この1カ月で経験したことを通じて、自分が自然に出来ていることを他者に伝えるのは難しいと考えるようになったからだ。英語の音声を操ることが出来る(聞き取れるし、自分でも出せる)人にも、本記事の内容を読んでほしいと思う。

 では、本題に入る。長めの「自分語り」になるので、退屈な人は途中を読み飛ばしてもらって構わない。重要な部分は太字になっているので、安心してほしい。

①私が塾講師になるまで

 私は20年以上前に大学入試を経験した。幼少期からいわゆる「勉強」が好きだった私にとって、正直、日本の大学入試は「楽勝」であった(不愉快になる人もいると思うので、謝っておく🙇‍♂️🙇‍♂️)。

 ただ、英語と古文には苦手意識が強く、とくに英語のリスニングは絶望的に苦手だった。私が大学受験をした時代には、まだセンター試験(現在は共通テスト)にリスニング試験は導入されておらず、国立大学の入試でも、同じ英文を3回読んでくれていた。そのおかげもあり(英語が苦手でも、数学と世界史がズバ抜けて得意だったことの方が理由として大きいが)、晴れて第一志望の国立大学に合格することができた。

 麻雀の魅力に取り憑かれ、大学に行かなくなるまでに時間はかからなかった。在学5年間(2留1休学)で身につけたスキルは、麻雀と対人関係(特に会話)とゲームに集中している。大学を中退(正式には「除籍」。つまり、私の最終学歴は高卒である)する直前に塾講師として働き始め、現在もメインの活動拠点はその塾である。

②塾講師として英語を教えてみて

 英語が苦手な私は、「文法」の力を借りて大学入試をクリア(東進の永田達三先生、マジで感謝してます🙏🙏)した。当然のことながら、生徒にもそれが最善の方法論だと伝えていたし、そのことに疑問も抱かなかった。得意の数学を生かし、論理的に英文法を教える私は、幸いにも多数の生徒から支持を受けた(私の思い込みの可能性はおおいにあるが😅)。およそ10年間、私は自分の方法論を疑いもしなかった(疑えなかった)。

③私が10年間悩み続けたこと

 転機は、10年程前に訪れた。帰国生が増え、早期英語教育が浸透する中で、文部科学省が英語教育の方針を見直すようになったのだ。近年流行の表現を借りれば、「4技能(読み書きだけでなく、聞く話す能力も重視する)」を意識するようになったのだ。この方針は、英語のスピーキング・リスニングが苦手な塾講師にとっては極めて不愉快で、当時の私も強く反発した。「日本にいて、英語を十分に浴びることは不可能」「文法を軽視する方針」などと思ったことを覚えている。周りの講師からも、同様の意見を聞いた。

 一方で、英語を言語として使いこなすことの必要性は理解していたつもりであり、何とか自分も使えるようになりたいと願った。TED(米国の弁論番組)やBBC(英国のニュース番組)の英語を聞いてみて、完全には聞き取れないことを悔しく感じた。何より痛感したのが、自分の口から母国語speakerと同じ音声を発することが出来ないことだった。自分が出せない音声は、聞こえない。現在の私は、その原因を知っている。「英語の音声を発する口の形」を作っていなかったからだ。だが、当時の私にはそのことは思いもよらないこと(ドラゴン桜2などに指摘があったが、理解できないので読み飛ばしていた)で、延々と苦しみ続けた。

④アラビア語との出会い

 アラビア語学習を始めたのは、今から2年前のことだ。私はもともと歴史が大好きで、指導科目として最も自信を持っているのは世界史(これは、英語speakerとなった現在でも変わらない)だ。中でもイスラーム史が好きで、それもあってアラビア語を学ぼうと思った。もちろん、「あまりにも英語が口から出ないので、アラビア語に逃げた」という側面もあった。この、半ば投げやりとも言える選択が、実は重要な意味を持っていたのだが、それは2年前の時点では知る由(よし)もない。

 アラビア語学習を文字から始めた私は、いきなり挫折することとなる。なにしろ、訳の分からない形で、似たような文字の組み合わせが大量に登場する。興味がある人は、ネットなどで調べてみてほしい。アラビア文字を眺めていると、それだけでウンザリする。結局、基本文字を28(その他、いくつか重要な記号がある)覚えるだけで1年を費やすこととなった。アラビア語学習を文字から始めるなど言語道断であり、絶対に「音声」から入るべきである。アラビア語speakerとなった今なら、そう断言できる(アラビア文字は発音記号であり、舌の形を表している)。しかし、「言語学習は文字から」と思い込んでいた当時の私(おそらく、日本で他言語を学んでいる多くの人が、同じように考えているだろう)には、それは無理というものだ。

 アラビア語学習の2年目(つまり今年2021年)は、文字が読めなさ過ぎて、音声を聞くこと、音声を真似することに徹していた。アラビア語は日本語と共有している音が多く、母国語speakerの話す例文を比較的真似しやすかった。NHKラジオ講座には感謝している。徐々にアラビア語の会話表現に慣れてきた私は、自分の中でアラビア語会話をするのが日課(というか、知っている表現が少な過ぎて、ほぼワンパターンの会話だった)となった。私はアラビア語で話したい、アラビア語での会話相手が欲しいと強く願うようになった。言語学習(とくにspeaking)においては、その言語を使いたいという動機が何よりも大切(いわゆる留学生が当地の言語を早く習得するのも、当該言語を多く浴びるだけが原因ではないと考える。その言語を早く使えるようになる必要性の面も重要だ)なのである。

⑤そして、trilingual speakerに

 その瞬間は突然やってきた。忘れもしない、5月30日(日)のことだ。1年遅れで流行曲を聴いていた私に、今まで聞こえていなかった音(正確には、出せなかったし認識できなかった音域)が突然流れ込んできたのだ。と同時に、今まで自分の中で溜まりに溜まっていた英語表現が、自分の口から洪水のように溢れてきたのだ。自分の感情・思考が次々に英語として口から発される。アラビア語も同様である。自分の素直な感情に最もシンクロするのがアラビア語(と言うよりも、元々シンクロした表現しか覚えていない)、次に英語(こちらは大量に表現を覚えており、なおかつ自分の感情とシンクロしているので最も使いやすい)。そして、苦手なのが日本語(長い間、音声としてではなく文字列として認識していた)だった。英語speakerとなった私は、日本語を激しく憎んだ。自分が長らく英語を使えなかったのは、日本語のせい(実は、あまり間違っていない)だと感じたからだ。いずれにせよ、アラビア語・英語・日本語という3つの言語を話せるようになった私(trilingual speakerになったのであり、bilingual speakerだった瞬間は存在しない)は、1週間ほど「日本語が上手く話せない」という新たな悩みと向き合うこととなった。

⑥今、思うこと

 あれから約1ヶ月が経った。新しい世界に「生まれ落ちた」私にとっては、もう一度40年分の人生を過ごした(自分が認識していなかった音声の世界において)ようなものだ。あまりにも学ぶ(学び直す)ことが多過ぎて、かつての自分が得意だった漢字・数字の感覚を取り戻すのにも時間が必要だった。このnoteに向き合うのも、随分久しぶりな気がする。

 そんな私の思いを本記事の結びとさせていただく。なお、今回は「特別編」であり、近日中に「英語はなぜ難しいか?(音声編)」を書く。これは、ここまで私の自分語りに付き合ってくれた貴方に対する「my duty」である。間違いなく、英語と日本語の「音」の相違、そしてその対処法を記事にする。約束する。

 という訳で、今の私の本音を列挙する。

・マジで途中で止めなくて良かったよ‼️ アッラー(私の第一言語はアラビア語である)のおかげ。

・自分の周りに英語speakerが複数いたのは大きかった。やはり環境は大事

・「英語で考える」とか無理に決まってんだろ!    英語で話している時も、コッチは日本語で考えてるわ! というか、母国語が日本語なんだから当たり前😝

・文法学習がいけないのではなく、「文法だけ」で言語を捉えるのが良くない。現在の私は、英語で言い間違えをしたとき、「音声として違和感がある」とも思うし、「文法としておかしい」とも考えている。いわば、音声と文法のダブルチェック体制を敷いている。

・ぶっちゃけた話、英語を使えるようになるのを諦めていた。諦めたっていい、止めなければ。ついでに言うと、自分が出来ないことを誰か(何か)のせいにするのは非常に有効な手段である。「日本人なんだから英語が出来なくて当たり前」というのは、言語学的にも相当いい線を言っている。自分だけが原因ではないのだから、素直にそう思えばいい。

・長い間封じていた思いだが、「英語ペラペラはカッコいい!」。私は英語ペラペ(自戒の念を込めてこう自称する)の段階だが、「ペラペラ」になるのもそう遠い日ではないだろう。現在の日本では珍しくないが、30年前は英語が話せる日本人は希少だった。やっとなれたぜ‼️

・私のnoteを読んでくれている読者の中には、(記事の性格上)教育関係者も多いと推測する。英語を教えているのに英語を話せない教育関係者にとって、今回の記事はあまり愉快ではなかったと考える。ここでお詫びする🙇🙇🙇🙇🙇🙇。「英語を話せる必要はない」「英会話を習う時間なんてない」「大学受験に英語の4技能は必要ない」など、様々な思いが去来したことだろう。それらの意見は全て正しい。私は「英語を教えているんだから、英語を話せなければダメだ」と責めるつもりは毛頭ないし、その権利もない。なぜなら、上記の感想はまさに以前の私が抱いていたものだからだ。現在の私が望んでいることは「責める」とは真逆で、不愉快に感じたならば、それは新しいことが出来るようになるチャンスである、ということを伝えたい。人は自分と完全に無関係なことには興味を持たない(持てない)。自分が出来ることを誰かが言っていたら、褒める、もしくは聞き流す。だが、自分が出来なくて、なおかつ出来るようになりたいと思っていることを誰かが言ったら、「ザラっ」とする。何かしらの違和感を覚え、不愉快になる。その感覚は、新しい自分に出会うために必要不可欠なものである。もし貴方が教育関係者ならば、英語が話せるようになることで、これまでとは異なる自分、異なる生徒と出会えるかもしれない。現在の私がそうであるように。


 長文にお付き合い頂き、感謝の言葉もない。最後に、本記事の要約をしておく。

言語学習は音声から始めるべき。文字や文法は「helper」。この順番を間違えてきたのが日本の英語教育だが、近年は変わりつつある。私はアラビア語のおかげで英語ペラペになれたが、同じような悩みを抱えている教育関係者は多いはず。その人達には、私が体験から学んだことを伝えていきたい。とりあえず、言語学習を続けろ!

 こんな感じで合っているだろうか?それでは、次回の記事でお会いしよう。See you next time!


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