見出し画像

主は与え、主は取られる〜ある日の礼拝にて

一度諦めていたけれど、再度好きになった子にパートナーがいることがわかった。

知らない間に虫歯が進行していて試験前にも関わらず少し遠くの歯医者に通う羽目になり、矯正の治療が長引いた。

国試を控えて試練の真っ只中にさらに試練が重なり、御言葉を聞いても心に響かない日々が続いていた。

そんな一週間を過ごしたある週の礼拝メッセージのテーマは試練についてだった。

良いメッセージだったけれど、途中で
「神と富の両方に仕えることはできない、本当に神様を信じているなら切羽詰まった時に富を捨てられるものです」みたいなことを聞いて、

試練の中で御言葉じゃなくて賛美以外の音楽や漫画に触れてストレスを紛らわそうとしている自分は本当にクリスチャンなのかと改めて思い、恥ずかしくなった。悲しくなった。

メッセージの後の応答の賛美は
「主は与え、主は取られる」だった。

この賛美がヨブ記からきていることにすぐに気がついた。ヨブ記は好きだった子が通読していることを教えてくれた書簡でもあった。
メッセージといい、賛美といい、タイムリーすぎてまるで私のために用意されていたかのような気分だった。しかしその時は喜ぶことはできずに終わってしまった。

礼拝後、ある姉妹の方と話す機会があり、その人から、聖書の中にある地に落ちて死んだ麦が育っていく喩えの話を聞いた。
後日、改めてその箇所を開いてみたけれど、あまり意味は分からなかった。ただ、なんとなく今の自分に語られているような気もした。

2年前に参加したキャンプでメッセージをしてくれた牧師先生は、初めて教会に就任した際に、「教会は悲しみのデパートのようだ」と話していた。
身内やその人自身に精神疾患がある人、子供の非行で悩んでいる親など、たくさんの重荷を抱えた人達を見てきたそうだった。

もちろん、教会に集っている人が世間一般の人よりも特別不幸だというわけではないと思う。幸せそうにしているクリスチャンだっていっぱいいる。
でもそれは神様の平安があってこその幸せで、何も彼らが物質的、経済的に恵まれているとか、人間関係が充実していて何も問題がないことが主たる理由では無いと思う。


世の中はほんっとうに悲しみに満ちているし、信じていても、大切なものを手放さないといけなかったり、奪われたり、失くしたり、色々ある。


それでも信仰を止めないのは神様が私たちを愛していることを知っているから。
将来に希望を与えるためのご計画があると聞いたから。
神様から離れそうになっても、祈ってくれる友がいるから。
イエス様が、私たちが信仰から離れないように既に祈ってくれたから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?