王様の異常な愛情 〜または私はいかにして心配するのを止めてチョコレートを愛するようになったか〜

 降る雪がすべての音を吸い込んでしまったある寒い日の午後、プラネタリウムの特別展示室のベンチに座ってオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』を読んでいると、遠国幽香が向かい側にあるミュージアムカフェでコーヒーを飲んでいるのが見えた。

 僕は栞代わりのパンフレットを本に手挟むと、プラネタリウムの上映が始まるまで王様の様子をそれとなく観察することにした。僕はリスナーの鑑なので配信外でVtuberに話しかけたりはしないが、そうは言っても、手持ち無沙汰な時間を誤魔化すには一度読んだ本をさらに読み返す以外の何かが必要だったのだ。王様は僕の存在に気がつくことなく二杯目のコーヒーにミルクを注いでいた。

 もちろん、王様は今日も素敵な王様だった。ダークカラーのタートルネックから覗く華奢な首には性別を超越した色香があった。同系色のオーバーコートを羽織った王様は、王様というよりも現代アートの担い手のように見えた。

 王様の性別について語るのは難しい。しかし、数少ない根拠からその真実の一端を推し量ることはできる。国王の証たる立派な(そして、雄々しくそびえ立つ)一角獣の角を見れば、フロイトなら「間違いなく男性である。なぜならあの角はどう見ても以下略」と断言したに違いない。あるいはユングならもう少し注意深くノアの方舟にはあらゆる獣のつがいが乗せられていた(ので、一角獣には雌もちゃんと存在する)事実に言及したかもしれない。ラヴクラフトならそもそも性別について議論することを潔しとはしなかっただろう。だが、ダーレスはそんな年かさの友人の意向をまったく無視して「可愛いから女の子である」との主張を曲げない気がした。ダーレスには他人の現実を自分の常識で噛み砕くといういささか困った悪癖がある。おかげでクトゥルフ神話は今日まで至る人気を獲得したが、同時にその恐怖の根源たる混沌を幾分か失いもしたのだ。

 僕が王様の性別について超越的思索に耽っていると、王様はミュージアムカフェの支払いを済ませて僕がいる特別展示室のベンチの前を横切った。そして、そのまま上映前のプラネタリウムのなかへと消えていった。僕も本を外套のポケットに突っ込むと、王様の後を追ってドアをそっと押し開いた。

 誰もいないプラネタリウムは、上映前であるにもかかわらず、天幕のスクリーンに満点の星空を映し出していた。部屋の中央に位置する映写機がジリジリと粒子の荒いフィルムの光を空気中に投影している。年代物の映写機なのだ。深く息を吸い込むと歴史の匂いがした。

 王様の姿はこつぜんと消えていた。

 僕は一つ深呼吸すると、プラネタリウムの内部を外周に沿ってぐるりと一周してみた。何もおかしな部分はない。出入り口は僕が入ってきたドアだけだ。

 僕は消毒液の匂いがするシートに腰掛けると、背もたれに体重を預けて作り物の夜空をじっと眺めてみた。なんだか『イッツ・オンリー・ア・ペイパームーン』みたいだなと思った。そうよ、あれはただの紙の月……。

 スタンダード・ジャズの名曲をハミングしながら星を一つ一つ数え上げていると、僕にもヒントらしきものが少しずつではあるがわかってくる気がした。

 まず、この空は「地球の空」ではない。

 星座の位置と角度から自分の現在位置が地球――というか、太陽系から――遠く離れた外宇宙であることはすぐにわかった。三角測量の要領で地平線までの距離を求めると今いる場所が地球よりもずっと小さい天体であることもわかる。つまり、プラネタリウムの示唆によれば、僕はいま地球を遠く離れたどこか別の惑星にいるのだ。

 僕は映写機のすぐ傍に立って天幕の頂点を見上げた。満点の星空の中央に一点なんの光もない暗い穴が見える。足元を注意深く探ると、小さな四角い蓋のようなものがあった。蓋を開くと、手回し式の小さなハンドルがある。僕がハンドルをキコキコと回すと、天幕の暗い穴から梯子がゆっくりと降りてきた。

 僕はひんやりと冷たい把手を掴むと、外宇宙へ続く梯子を一段また一段と登った。天幕の穴の向こう側には舞台装置を点検整備するための足場が組まれている。梯子はそのさらに上に向かって伸びていた。僕は天国へ続く梯子を登る聖人にならって黙々と梯子を登った。梯子が全部で何段あるのかは皆目検討もつかない。少なくとも百段や二百段ではないことは確かだ。

 とは言え、もちろん、梯子にも終わりはある。梯子の先に徐々にプラネタリウムの天井が近づき、やがて、手が最後の一段に掛かった。その先は跳ね上げ式のドアになっている。僕は梯子から落ちないように細心の注意を払って全身の力を腕に込めた。重く分厚いドアが持ち上がるにつれて少しずつ目の前に光が差し込んできた。

 アスター星から降り注ぐ光だ。

 僕は路地裏の路上にあるメンテナンスホールから身を乗り出すと、全身の力を込めて地上に這い上がった。もちろん、正確には「地上」ではない。アスター星から伸びる(あるいは、軌道上から吊り下げられた)軌道塔と接続した軌道環(オービタルリング)に位置する王国――アスター王国なのだ。空の採光パネルを見上げると、星を呑み込むような軌道塔の連なりの先に青く美しいアスター星が見えた。僕はしばらく外宇宙の夜空を堪能したのち、外套のポケットに両手を突っ込んで官庁街の中心部へと足を伸ばした。

 アスター王国の街並みは、トマス・モアの『ユートピア』を彷彿とさせる秩序と清潔さに満ちている。碁盤目状に整理された街区には装飾性を廃したモダン調の高層ビルが墓標のように立ち並び、等間隔に起伏したビルの谷間をくじらのような飛行船がゆっくりと旋回していた。飛行船から吊り下げられた電光掲示板が街区を睥睨する為政者の姿を圧倒的な巨大さで映し出している。ネオンの光が照らし出す王様の威容は、普段の配信で目にするよりも何倍も畏く見えた。飛行船の拡声器から無機質な合成音声が摩天楼に繰り返し反響する。

 KING KASUKA IS WATCHING YOU.

 しかし、アスター王国に人の気配はなかった。生活の痕跡がないわけではない。ホテルのラウンジには、ビスケット状の主食にペースト状の主菜と副菜が添えられたランチプレートが食べかけの状態で残されている。コーヒーらしき液体からはまだ温かな湯気が立ち上っていた。メアリー・セレスト号の有名な伝説のままに。

「恒星日誌、アスター歴0年、2月14日。私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した」

 僕はソファの陰に屈むと、声がした方をそっと覗き混んだ。その宇宙飛行士は、いささか偏執病的な眼差しでランチプレートを睨んでいた。

「合成食品か、ふむ」と、宇宙飛行士は主食のビスケットを半分に折ると注意深く舌先へ運んだ。「主成分は水素酸化細菌から合成したエア・プロテインだな。畜産資源は豊富とは言えないらしい。チーズも遺伝子改変酵母から合成されたものだ」

 宇宙飛行士はコーヒーの匂いを嗅ぐと露骨に嫌な顔をしてカップを元の位置に戻した。

「モレキュラー・コーヒーは酷い匂いがする。嗜好品の質は最低。市民には生存に必要最低限度度の食事しか提供されていない」

 僕は宇宙飛行士の目を盗んでランチプレートの手つかずの合成食品をいくつか食べてみた。主食のビスケットはチョークの粉を固めたみたいな味気ない食感がする。チーズは無香料の石鹸の味。コーヒーに至っては控えめに言って泥水だった。ミルクを注ぐといっそうまろやかな泥水になる。

「生体反応を検知? 生存者がいるかもしれない。救助活動へ向かう」

 僕は泥水を半ば義務感で飲み干すと、宇宙飛行士を追ってホテルのラウンジをあとにした。宇宙飛行士は宇宙服の左腕に装着したデバイスが指し示す方向に迷いのない足取りで進んでゆく。市街地に反響する合成音声のおかげで僕の足音は宇宙飛行士には聞こえないようだった。

「ここは?」

 と、宇宙飛行士は官庁街の郊外にある建物の前で立ち止まった。やはりモダン調の高層ビルだが、街区に占める面積の割合は他の建物とは比較にならない。特別な目的で建設された政府施設か何かと見るのが妥当に思えた。宇宙飛行士も同意見らしく、建物を見上げる表情を険しくしていた。

「生命反応多数。生存者が一箇所に集められている可能性がある。救助活動を続行する」

 宇宙飛行士の姿が自動ドアの向こう側へ消えたあと、数分待って警報装置の類が作動しないのを確かめてから僕も施設の内部へ足を踏み入れた。

 施設全体の案内図を見るに、この建物は教育施設と居住施設を一緒くたにした複合施設らしい。一階を廊下に沿って進むと体育館と屋内プールに通じるドアがある。子供たちの活気に満ちた声はなかった。中庭に面した窓から外を眺めても見えるのは常緑樹とベンチのみだ。渡り廊下を挟んだ反対側にある運動広場にも砂埃一つ立ってはいなかった。

 二階以降の教室棟にも教師や生徒の姿は見られない。が、教室の作りから五歳以下の未就学児童を対象とした施設であることは察しがついた。とは言え、保育園や幼稚園といった一般的な教育施設とはスケールが段違いだ。この施設全体で少なくとも千人からの児童が生活しているのだ。しかも、恐らくは施設から出ることなく。

 教室棟の同階に併設の居住棟には、食堂を中心とした生活空間が広がっていた。食堂で夕食を取ったあとは、各々の部屋で一斉に床に就くのだろう。部屋のドアの一つを押し開けると、中には子ども用の小さなベッドが四つ並んでいた。本当に寝るだけの部屋だ。病院の入院棟が構造としては一番近い。もちろん、子供たちの姿はなかった。

 僕は教室棟と居住棟を結ぶ渡り廊下の階段の手すりにもたれて吹き抜けの上下に顔を巡らせた。例の宇宙飛行士と鉢合わせなかったということは、どうやら見当違いの方向にきてしまったようだ。

 僕はこれ以上階段を登るのをやめ、逆に階段を降りていくことにした。公共施設に特有の飾り気のない地味な内装にカン、カンと階段を踏む音が無限に反響する。

 ほどなく、地下へ通じるドアが見えた。ドアは電子錠で施錠されていたが、ノブの固定機構それ自体が何かしらの手段で破壊されていたので手で押すと苦もなく開いた。僕はコートのポケットに手を突っ込んだまま先行きの見えない真っ暗な階段を一段、また一段と下った。

「恒星日誌。驚くべきものを発見した。人工ヒトゲノムの合成。銀河連邦法に違反する重大犯罪だ。スターコマンドに応援を要請するべきかもしれない」

 僕は足音を忍ばせながら宇宙飛行士の死角となる遮蔽物の陰に屈み込んだ。地下室には、ブーン、という空調の音と外套の隙間から忍び込んでくるような湿っぽい冷気が満ちていた。僕は外套の衿を立てるとスロートラッチのボタンを留めて寒さに備えた。そして、宇宙飛行士が見ているものを改めて見た。

 地下室に並んでいるのは、何百、何千という数の試験管だった。試験管の中は液体で満たされ、ヒトの嬰児が管に繋がれて眠りながら生誕の時を待っている。宇宙の――アスターの過酷な環境に適応するために遺伝子改変を施されたデザイナーベビーたち。嬰児の製造工程を完成から着手まで逆向きに順を追って見ていくと、最後に行き着くのは人工ゲノムの合成過程だった。

 無機物から合成された人工ゲノムによって製造される合成人間に両親は存在しない。合成チーズの元となる生乳を生産する牛が存在しないように。合成人間はこれ以上ないほど純粋な「アスターの子ども」として生まれてくるのだ。

「スターコマンド、クローン技術禁止法その他複数の連邦法に抵触する研究施設を発見した。至急応援を要請する。スターコマンド」と、宇宙飛行士はハッとして振り返った。「誰だ!」

 僕は咄嗟に物陰に身を潜めた。が、宇宙飛行士の右腕から伸びたレーザーガンの照準は僕とは正反対の方向へ向けられていた。僕のいる場所からは見えない試験管の陰で何者かが宇宙飛行士と対峙しているようだ。しかし、会話の内容は空調設備のブーンという音にかき消されてよく聞こえなかった。宇宙飛行士はレーザーガンの照準を自分の目線よりやや下に向かって構えながら一歩相手へにじり寄った。

「あなたを逮捕する。スペースレンジャーは犯罪を見逃さない。例え相手が誰であっても」

 宇宙飛行士は右腕のレーザーガンの照準を寸分の狂いなく一直線に相手へ向けたまま、左腕に手錠を持ってさらに一歩相手へと接近する。宇宙飛行士の背中が試験管の陰に完全に隠れて見えなくなった。

 その、直後。

 宇宙飛行士が「うっ!」と奇妙な呻きを漏らしたのに遅れて、名状し難い断末魔の絶叫が「持続可能な国民生産施設」の地下へ幾重にもこだました。魂の最後の断片が粉砕機にかけられて絞り出されるようなおぞましい悲鳴がやむと、バタン、と宇宙服が仰向けに倒れるのが見えた。中身の宇宙飛行士の姿はない。

 僕は足音を忍ばせ、宇宙服の傍らへ近寄った。何度見ても宇宙飛行士の肉体は影も形もなく消え失せている。試験管の陰になって見えなかった部分を見ると、エレベータの表示灯が地上五十階を示しているのに気づいた。僕はエレベータのボタンを押すと念のために身を隠してからエレベータの到着を待った。が、何者かが僕を待ち構えているということは特になかった。僕は地上五十階のボタンを押すとエレベータが上昇を始める重力加速度に身を委ねた。

 地上五十階は、空中庭園だ。

 植物の緑のなかを地上から汲み上げられた水が流れる美しい庭園だが、植物の種類は地球とはまったく異なる。採光パネルから絶え間なく宇宙線が降り注ぐアスター王国では、生命力豊かな植物ですらそのままの姿で生き抜くことはできないのだ。人類の手による人為的な遺伝子組み換えと宇宙線による偶発的な突然変異を繰り返した植物たちは、ある種の神話生物を思わせる途方もない巨大さを獲得していた。僕は『不思議の国のアリス』のような心地で僕の背丈ほどもある巨大な菌糸類の隙間を縫うように歩みを進めた。よく手入れを施された空中庭園らしく虫がいないのが勿怪の幸いだった。

 遠国幽香は、空中庭園の四阿のベンチに腰掛け、ステンレス製のタンブラーをじっと見詰めていた。タンブラーの中身はホットチョコレートだ。熱々の湯気に乗って甘ったるい匂いが僕にも届いた。

「……! ……!」

 王様は、どこかから取り出したソリッドチョコレートに耳をそっと押し当てると、まるでチョコレートの声を聞くみたいに「うんうん」と何度か首肯した。

 そして、チョコレートを真っ二つにへし折ると、小さな破片から順番にタンブラーへ放り込んでマドラーでぐるぐるとかき混ぜた。

「……! ……!」

 王様は「ふうん」とか「なるほど」とか「意外と長持ちしますね」と独り言を呟きながらチョコレートをかき混ぜていたが、破片がすべて溶け切ると今度はどこからか取り出した生クリームをドバドバとタンブラーへ溢れんばかりに注ぎ始めた。

 王様の表情は楽しげではあるがどこか抜け目のない鋭さを伴っていた。自分の好きな分野の研究をやっている科学者の目つきに似ていた。

 王様はタンブラーのホットチョコレートと生クリームの割合を1:1にすると、再びマドラーでぐるぐると二つの素材を丁寧に撹拌した。よく混ざったあたりでいったん手を止めて耳をすませたが、残念ながら今度は王様の耳にも何も聞こえなかったようだった。

 空中庭園に「いただきます」の声が小さく反響した。

 なぜアスター王国の住民は消えたのか。
 なぜ宇宙飛行士は消息を絶ったのか。
 なぜ王様はチョコレートに語りかけるのか。

 残念ながら僕にはわからない。わかるのは、どうやらそろそろ帰路に就いた方がよさそうだ、ということのみだ。

 僕は足音を忍ばせてゆっくりと一歩後退りし、

 バキッ

 と、何かを踏み抜いた拍子に尻餅を突いた。僕は起き上がりながら小首を傾げた。普段何かに躓くようなことは滅多にないのだ。いったい何を踏んでしまったんだろう、と思った。

 踏んだのは、自分の足だった。

 自分の足が、ふくらはぎから割れて、しかも、逆の足に踏まれて砕けていた。痛みはなく、ふくらはぎの割れ目からは、なめらかなビターチョコレートの断面が見えた。

 僕は自分の足の破片に次第に蟻が群がるのを眺めながら「なるほど」と呟いた。なるほど、身動きが取れなくなってしまったようだ。そして、おれの身体は――少なくとも下半身の何分の一かは、どうやらチョコレートに変わってしまったようなのだ。

 ふと気づくと、王様の紫色の目が興味深そうな視線を僕へ投げかけていた。王様の視線が意味するところは僕にもわかった。というか、当事者である僕には今後の僕の運命が切実に理解できた。

 今のまま少しずつ蟻に身体を持って行かれて欠片ひとつ残らないほどバラバラにされるか、あるいは――。

 僕は今や僕の背丈の何倍も大きい菌糸類に背中を預けて上半身を起き上がらせると空の採光パネルを見上げた。アスター星の青い輝きが今も変わらずアスター王国を秩序と清潔さに満ちた残酷な無慈悲さで染め上げていた。

 僕は蟻が胸の空洞から鎖骨のあたりを這い回る感触に身震いしながらまぶたを閉じた。どんな人生もいつか終わる。しかも、決して予想もつかない方法で終わるのだ。そんな格言を残した偉人も、まさかチョコレートになって蟻に食べられる僕のことは予想できなかったに違いない。

 足音が近づいてくる。

 僕は深呼吸と同時に大きな溜息を漏らした。そして、願わくば蟻に食べ尽くされるよりは何かもっと――例えば、ザッハトルテの材料として使われるような最期を心密かに期待するのだった。

<完>

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