泉の歴史 教皇との関わりpart1
古代ローマ時代には既に上下水道が完備していた。一番古い水道橋は紀元前312年に作られたアッピア水道で、最盛期には11の水道橋がありましたが…
紀元537年の蛮族侵入の際に、ローマ人の生命線を断つために水道橋が破壊される。
ゆえに、ローマの泉は機能しなくなってしまいまた、ローマ帝国は衰退していく。
ローマ市民は、減少。
唯一1つだけ破壊を免れた水道橋、ヴィルゴ(ヴェルジネともいう)水道。
この水道はとても低い位置に作られており、そのほとんどの部分が地下を通っていため、破壊を免れてた水の出るトレヴィの泉からスペイン広場、ピンチョの丘、トラステーベレのあたりで市民は生活することを余儀なくされる。
ローマ帝国が崩壊後は、Roma は、徐々に教皇の街となっていくのだが…
しかしまだ中世は…混乱している。
1309年から1377年にかけて、ローマ教皇庁と対立したフランス国王が教皇庁を強制的にアビニョンに移し、教皇をその支配下に置いた『アビニョン捕因』があり、ローマは教皇なしの骨抜き状態に。
教皇が居ないと→巡礼来ない→寄進がなくなる→街が潤わない→街があれる→単なる地方都市へ
1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂した状態。『教会分裂』がおこる。
その後『コンスタンツ公会議』での教会大分裂の解消後に選出されたローマ教皇がマルティヌス5世である。
彼の使命は、ローマの都市再生の急務。
ローマの秩序回復に努め、旧サン・ピエトロ大聖堂やラテラノ宮殿などの修復を行った。建設費用と関係して、それまでローマのユダヤ人が支払っていた税を、イタリアのユダヤ人全体の共同責任で拠出することが定められた。
(ユダヤ人可哀想💦)
そうして少しずつカトリックが力をつけ、都市整備にあたり、再び水道橋の復興も動きだす。
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