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「愛することと働くこと」

4月ですね。
3月、毎年のことだけれど、次年度の新卒の就職活動がスタートしたとのニュースに、他人事ながら緊張してしまう。
そして4月1日は、新入社員が新しい扉を開ける日。
どうか誰もが胸を張って社会人1日目を過ごせますように。

学生時代の自分を振り返る

自分が学生だった頃
今ほど大学の就職支援が充実していたわけではなく、1人でぼんやりと自分の学生生活を振り返り、自分が持っていそうな強みと、もしかしたらどこかで目にしたフレーズを書き連ねた履歴書をなんとか作り上げ、知らない大人との面接に臨む日々だった。
もちろん、思い通りになんて行くはずもなく、今でも辛い思い出だ。

そもそも、大学生のわたしは自分に「強み」なんてものがあるとは思ってもいなかった。

地方で育った真面目で我慢強い長女。
わたしにとって、努力して上を目指すことが何よりも尊く「間違わない」ことが正義だった。

そんなわたしも、大学に合格して家を出るのをきっかけに、「女子大生らしい」生活を謳歌しようとはりきった。
「正しい」よりも「楽しい」ことをしてみようと思った。
ピアスの穴を開け、合コンに出かけて、テニスサークルに入った。
真夜中にコンビニへ行ってみたり、授業をサボって映画を観に行ったりした。
遊び上手な友人たちと、スマートに楽しく生活できていると思っていた。

が、ある時、友達に言われた。

「れいこはなんでいつも謝ってるの?なんかこっちが悪いことしてるような気分になっちゃうよー。」

確かに、わたしはよく謝っていた。
待ち合わせ時間ギリギリになった時、サーブがうまく入らなくて味方が失点した時、聞かれた質問にうまく答えられなかった時。

「ごめんね。」「すみません。」「わたしなんて・・・」

口癖になっていた。

もともと、自分に厳しく自己肯定感が低い方だ。
加えて、はじめての東京での一人暮らしのプレッシャーもあった。
他人にはオドオドしているところを見せたくなかったし、なんでも軽くこなしている自分に見せたかった。
そのくせ、なんてことない出来事にもいちいち傷つき、自信をなくしていた。

ああ、青春の未熟さよ!と今なら思える(笑)

そんなわたしが経験した就職活動は、さらに自分自身にがっかりする結果となった。

思えば、今まで試練と感じていた入学試験や資格試験などは、ダメだった理由がはっきりしていた。
点数が足りなかったから。それだけだ。

しかし、就活のままならさは、理由がわからないことにあると思う。
わからないから、自分の全てを否定された気持ちになる。
社会人として、人間として、わたしはダメなんじゃないかと。

なんとか拾ってくれた会社で実際に働きはじめると、思った以上に評価して褒めてもらえることが多かった。目的がはっきりした仕事は楽しかった。
今思えば、いい加減だと思っていた履歴書も面接での受け答えも、きちんと見て聞いて評価してくれている人がいたんだなぁと思う。
「ご縁がない」という言葉の意味がようやくわかった。

わたしはダメな人間じゃなかった。

どんな大人になりたいか


数年後、わたしは会社を退職し、母親になった。
夫の転勤で関西で暮らしていた。
見知らぬ土地、慣れない子育てで、精一杯頑張っていた。
それでも、できない自分に苛立つ日々だった。

そんな時、憧れていた先輩ママからこう言われた。

「荒巻さん、そんなに頑張り屋さんで素敵なのに、自分のことを『わたしなんて・・・』って言ってはダメよ。お母さんが自分のことを悪く言ったら、子供たちが悲しくなるわよ。」

別に卑屈になっていたわけではない。
自分なりに努力はしていたし、仕事でも評価されてきた。子供たちも順調に成長していた。
でも、もっと強いはずの自分を演出したかった。うまくできないことに心のどこかで言い訳したい気持ちがあった。
謙遜することで、自分の伸びしろを感じさせることができると思っていたのかもしれない。

しかし、それになんの意味があるのか?

その頃わたしがなりたかったイメージは、明るくていつも楽しそうで、息子たちが友達に自慢したくなるようなお母さんだった。
そう、先の言葉をかけてくれた彼女のようなひとだ。
自信に溢れていて、周りの人たちを幸せにするような思いやりがあって、きっとこの人には裏表なんてないんだろうな、と思わせる安心感があった。
この人は、他人のことも自分のことも、決して悪く言わなかった。
少なくとも、彼女の口から「自分なんて」という言葉は聞いたことがなかった。

「愛することと働くこと」

そういえば、大学を卒業して就職するときに、わたしはどんな大人になりたいと思っていたのだろう?

そんなことを深く考えることもなく、ただ周りに従って「就職活動」に参加した。
わたしにとって社会人になる、というのは、〇〇高校3年生→〇〇大学4年生の次に来るものとしか認識できなかった。

キャリアの勉強をしはじめたときに出会い、今でもとても大切にしている言葉がある。

「愛することと働くこと」              ジークムント・フロイト

ジークムント・フロイトはオーストリアの心理学者で精神科医だ。
人間の心の「無意識」を研究したことで名高い。

この言葉は、生涯発達とライフサイクルについて学んでいたときに出てきた言葉で、弟子が「先生、成人期の条件とはなんですか?」と尋ねたときのフロイトの答えだと言われている。

子供を育ててみて実感するのだが、生まれたての赤ん坊は存在するだけだ。
食べたり排泄したり、温度調節をしたりと言った、生きるために必要最低限のことですら、他人の助けが必要だ。
それが10歳くらいになると、自分のことだけではなく、他人のことも気にかけ、世話を焼けるようになる。
家族のお手伝いをしたり、学校で部活動や委員会活動に参加したり。
好きな子に構って欲しくてちょっかいを出したり、意見が分かれて友達や兄弟と喧嘩をすることもある。
たかが10年、されど10年だ。

子供は他人との関わり合いを通して、少しずつ自分自身のことを知る。
自分が快適に暮らすために必要なこと、自分が何を好きで何ができるのか。
自分と他人は何が違うのか。

愛すること
働くこと

それは、自分自身から他の人に向けて発信する「気持ち」と「行動」だとわたしは思う。
そして、その地盤となるのは、自分自身に対する気持ちと行動なのだろう。

自分自身を大切にし、自分自身が心地よく暮らすために努力することで他人にしてあげられることが見えてくる。
そしてその気持ちを伝え、実際に行動として相手にしてあげられる人が「成人」と言えるのではないかと思う。

「悪魔の言葉」を封印する


いろんな失敗や自己嫌悪を乗り越えて、わたしが自分自身に課している事がある。

それは、わたしにとっての悪魔の言葉「わたしなんて・・・」というセリフを絶対に口にしないこと。

大失敗をしたときは、シンプルに謝り、次は絶対にしないと誓う。
起こってしまった事件に対して反省しなくてはならないことはもちろんよくある。でも、その行いに対する反省はしても、それをしてしまった自分という人間を下げることはしてはいけないと思っている。
他人に慰められるよりも前に、自分自身が次は改善できることを信じて、悪魔の言葉を封印する。
それが、わたしの自分自身を大切にするコツだ。

逆に、分不相応な褒め言葉やお世辞を言われたときは、もちろんちょっと照れるけれど、「ありがとう」とにっこり笑ってやり過ごす。
社交辞令で謙遜したりしない。嬉しいから(笑)

たかが言葉。
でも、それを口に出すことで、脳はそれを信じてしまう。
そして、悪魔の言葉を吐いても誰の得にもならない。

改正民法が4月1日に施行され、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられた。

法律がどんなに変わっても、人が成人になるタイミングは一律ではないと思う。
無駄に悪魔の言葉を口にすることなく、自分をしっかりと大切にできるようになったら、同じ熱量で他人のことを想い行動することを覚えればいい。
私たち周りの大人が、その手助けをできたらいいな、と切に思う。

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