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ミラノの運河とワインバー、花売りの男の話

運河というものは一体どういうものなんだろう。運河なんて言われてもピンとこなくて、知り合いが言っていた「ミラノの街中からちょっと離れてるけど運河沿いにバールがいっぱい並んでいる面白いエリア」を目指して随分と長いこと歩いたのに、どこが運河なのかさっぱり分からなかった。「これはただの川なんじゃない?」「いや、なんか海っぽい匂いがするような…」「運河って、あの、海がすっごく深くなってるとこだっけ?」「それって海峡だよね」という意味のない会話を夫婦で繰り返して、ナビ上のどうやら運河っぽいエリアに到着した。

運河沿いのその面白いはずのエリアは、平日のせいなのか閑散としていた。どうやら住宅街が近いようで、子供のお迎えをして帰宅を急いでいる親子連れとか、会社帰りと思われる人たちが、立ち並ぶバールには目もくれずにものすごい勢いで歩いていた。「アペリティーボ(レストランに行く前にバールで食前酒とおつまみを食べる習慣)ってミラノが発祥だからいい体験になると思うよ」とは言われてたけれども、どのバールにも「HAPPY HOUR」という看板が出ていて、なんだか仕事帰りのくたびれたサラリーマンを想像してしまった。

ちょっと拍子抜けした私と反対に、旦那さんは数あるバールの中で、良さそうなワインバーを見つけてくれた。そのバールはお店自体はキッチンとドリンクカウンターしかないくらい小さくて、テーブル席は全て目の前の道路に置かれていた。ミラノにはそういうお店が意外と多い。お店が上に掲げた看板にはでかでかと『WINE BAR』と書いてあって、私は英語の表記があるお店は観光客向けで高くて美味しくないとガイドブックにあったので、かなり半信半疑だった。

私たちが立ち止まったところを見て、ニコニコした青年が、流暢な英語で「アペリティーボは、ワイン1杯にチーズとサラミの盛り合わせがついて10ユーロですよ」と教えてくれた。半信半疑のまま腰をかけて、白ワインを頼んだ。隣のテーブルでは、眉間にしわを寄せた60代とおぼしき女性3人が、ものすごい勢いでおしゃべりをしていた。屋外なので気にせずタバコに火をつけたら、あからさまに嫌そうな顔をして文句を言われた。どこの国でもおばさまは一番強い。

ほどなくして、先ほどのニコニコした青年と、お店のオーナーらしきこれまた優しそうな男性が、アペリティーボのサラミとチーズを持ってきてくれた。2人で1皿かと思っていたら、1人に1皿だったのでとても驚いた。そのくらい量が多かったし、さらにパンもセットで「好きなだけ食べて」と言われたのだ。ちょっと無粋なくらいなみなみと注がれた白ワインがきて、どれもが素晴らしく美味しいものだった。隣のおばさまたちは、瞬く間に食べ尽くして、延々とおしゃべりをしている。

最初の猜疑心はどこにいったのやら上機嫌で飲み始めると、どこからともなく、この界隈をうろうろしている花売りの男たちが近寄ってくる。おそらく移民と思われる人たちで、こうやってテラス席で飲んでいる人たちを回って、気まぐれで花を買ってくれる人を探しているのだ。手には妙に生き生きとした美しいカーネーションを20本ほど持っていて、もしかしたら花屋の売れ残りを仕入れて売っているのかもしれない。

初めてミラノに行って、その短い滞在の間に、こんなに絶え間無く花売りがテーブルに来たのは、このエリアだけだった。毎回違う男が入れ替わり立ち替わり、10分に一度は寄って来て、「花を買え」と言う。「俺は朝から何も食べてない。お腹減ってるんだ」とか「このキレイなレディ(私のことね)に、花を買ってあげないと」とか言いながら、花を1本勝手にテーブルに置こうとする。その度に会話を中断して、「No!」というわけなんだけれども、相手もなかなか引き下がらない。そういう時は、そのワインバーのオーナーがピュッと口笛を吹く。そうするとすごすごと花売りは退散する。花売りもそれで暮らしているんだから、シャットアウトをすることはしないけれども、しつこい時は口笛で注意する。なんともスマートで粋で、ミラノらしい。ミラノに限ったことではないかもしれないけれども、子供でも女性でも口笛を吹く人が本当に多い街だった。あまりに花売りが頻繁にくるので、「この人は売れそうだね」とか「あいつはすぐ諦めて、売る気あるのか!」と勝手に査定をして楽しんでいた。

チーズとサラミの盛り合わせを持て余し、ボトルワインを追加して、私たちは腰を据えて飲み始めた。料理メニューを眺めながら一向にオーダーしないアジア人カップルを見かねたのか、ニコニコした青年がお皿に3つの料理を盛り合わせて運んで来てくれた。ポレンタとグラーシュ、ひよこ豆を煮た物。「on the house」という言葉が聞こえて、お店のおごりなんだな、ということが分かった。「うちの看板メニューを3つ盛り合わせてみたよ。お店のおごりだから食べてみてね」ということらしい。チーズとサラミが多くて、料理メニューを開いたり閉じたりしていたので、イタリア語のメニューを選びあぐねていると思ったのかもしれない。すごくゆるゆるとした雰囲気のお店で、働いている人も気楽で楽しそうなのに、そういう気の遣い方をしてくれたことに感激した。

ここで食べた、こんがりと焼きあげたポレンタの美味しさ、ミラノの人の人懐っこさが妙に嬉しかった。ボトルワインを2本飲んで、アペリティーボを含んだ会計は60ユーロと格安だった。ミラノでは星付きのレストランにも行ったけれども、このワインバーが一番美味しくて楽しくて安くて、心に残った。ミラノに住んでいたら絶対に通うお店だね、と旦那さんと何度も話した。そのあと結構離れたホテルまでどうやって帰ったのか、案の定、二人ともイマイチ思い出せないけれども。


※こちらは、以前に投稿した記事を「cakesコンテスト」用に再投稿したものです。

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