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明日の朝になったなら #1

深夜1時

「眠れないよ」
ベッドから降りた彼は、溜め息を吐きながらコンロを点火させ、お湯を沸かした。軽い寝癖を立たせた髪をもさもさとかいて、コーヒーを淹れる準備をしている。
私は物音で薄らと目を覚まし、布団をかぶったまま彼を見守っていた。
3月に結婚した私たちは、順風満帆な生活を送っていた。2人の貯金を使って家を建て、おそろいの服を何着も買った。
夕食は2人で作り、お互いの美味しそうな顔を見合いながら食べた。
そして髪の毛を梳かしながら、眠くなるまでお喋りをしていた。
恙無い生活。隠し事のない表情。
それが続くと、お互い疑わなかった。

4週間後。
「残念ですが……」
白い病院で告げられた、無慈悲な現実。
私たちの存在を象徴する命に会うことが出来ないというものだった。
「なんとか、ならないんですか?」
彼は受け入れることが出来ず、ひたすら医師を質問攻めにした。しかし、結果は変わらなかった。
病院から帰る車の中、彼は運転席に座るも、ハンドルを握らなかった。
「どうしたの?」
椅子に座らせた人形みたいに動かない彼に、私は恐る恐る声をかけた。
すると彼は、小さく口を開いて語り始めた。
「俺さ、子供が大好きなんだ。無邪気で、あどけなくて、いるだけでも幸せな気持ちにしてくれる。まさに夏希ちゃんみたいな存在さ。なのに、なのに……なのにっ……」
彼は堰を切ったように、表現出来ないほどに顔を濡らした。隣にいる私など構わず、わなわなと震えていた。
「こんなの……辛すぎるよ……!!神様はいねぇのかよ……!!!」
そして出会ってから初めて見るほどの激しい慟哭が、車内を埋めつくした。
「遥斗君…」
「ごめんね…。夏希ちゃんの方が辛いよね…。俺の事は気にしなくていいから、泣いていいよ…」
ハンドルに顔を伏せて、彼はさらに激しく泣き濡れる。私もその言葉を聞き、改めて自分に遭った運命を自覚し、彼と手を重ねたまま、お腹に手を当てて泣いた。
誰も恨んではいない。誰も憎んではいない。誰にも罪は無い。
なのに、そのはずなのに、
私たちはこの重すぎる運命を、
心から恨めしく思わずにはいられなかった。

その日から彼は、徐々に寝つきが悪くなった。
食事も日々の会話も少しづつ元に戻っている中で、睡眠だけは悪化していく様子だった。
毎日10時には眠る彼は、次第に10時半、11時となり、ついに日付が変わっても眠れない身体になってしまった。
何度か薬を試したことがあったが、彼は薬を嫌がって受け付けなかった。
飲んでくれた夜でも、元の時間に眠れる日は来なかった。
「眠れない。目が冴えてだめだ」
そう言って起き上がっては、窓の外の夜景を眺めていたり、スタンドライトを灯して本を読んでいたり、私の寝顔を眺めたりしていた。

「コーヒー飲んだら寝れなくなるよ?」
私は沸いたお湯を注ぐ彼に言った。
彼は耳を傾けるも、そのままマグカップに口をつけ、一口喉に流した。
「どうせ眠れないし、温かいもん」
「飲みすぎないでね」
私は横になったまま彼を見ていた。
彼はコーヒーを飲み終えると再びベッドの方へ近寄り、壁にもたれる形であぐらをかき、私を見つめた。
「ナッちゃんは寝ててよ。身体に毒だよ」
「どの口が言ってんのよっ」
私はのそのそベッドの端に移動し、彼に少し近づいた。
私を見る彼の目に光はなかった。生気があるようなないような、行ったり来たりしているような表情だった。
「寝てよ。本当に」
「ハルくんを放って寝るなんてできないよ」
「いいから。お願い」
「いやだ。だったらハルくんも寝て」
「俺は寝れない」
なかなか聞いてくれない。しびれを切らした私は布団をくるんだままベッドから降り、彼の隣に座って毛布を一緒にかけた。
「何これ?」
「じゃあせめて隣にいさせて。寝るまでずっといるから」
彼は小さく頷き、私からの布団を半分かけた。私もその隣に寄り添い、肩を並べた。
「少し喋ってもいい?」
「何を?」
「ハルくんの話」
「……え?」
何を言われたのか分からず、きょとんとしている彼。私は目元に届いている髪を分けてあげながら、話を始めた。
「思い出したんだ。ハルくんがくれた幸せのことを」

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