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声の出し方を忘れたみたい

 今日は学校に行って担任の先生と話したけど、先週から、筆談したりで一言も発していない。筆談のペースも落ちたな、と感じる。

 正直、書くのも辛い。自分が退化したことを認めることになるから。右目の筋肉が、勝手に目を閉じようとしている。(これは私が嫌な気持ちのときの癖で、反射みたいなものだと思う。)でも、逃げていてはいけない。

 ここまでで1時間ほど経ってしまったので、相当きついことを書こうとしていることは分かる。考えがまとまらない。2年前に手にした声を、また失ってしまったかもしれないこと、深く考えたら自分の思考に影響されてしまいそうなこと、吃音もあるのかもしれないこと。分からない。分からないから、ひとつずつ分けて書いていこう。

2年前に手にした声を、また失ってしまったかもしれないこと

 そもそも、私が声を取り戻した過程は、へんてこだったと思う。12年も引きずっておいて、いきなりって。いきなりではないか。ちゃんと紆余曲折あったか。とりあえず、入学してすぐ(緘黙の人の間ではこれが一般的)ではなくて、転校する直前に声を手にしたんだから、へんてこなのは変わりない。

 喋れるようになる前は、大変だった。大変だったし、辛かったし、不便だったし、しんどかった。別に、楽しいことがなかったわけじゃなくて、あったけど、生活していくのに必死だった。昔に戻れても、あえて戻ることはしないと思う。だから、また声を失ったかもしれなくて、焦っている。杞憂だといいけど。

深く考えたら自分の思考に影響されてしまいそうなこと

 人を前にして、「あ、もう喋れないな」って思ったら、自分が洗脳されて、本当に喋れなくなる。これは筆談でも一緒。「この人は無理だな」って思ったら書けなくなる。だから、上の段落はあまり書かないようにしてみた。喋れないって思ったら自分で洗脳していることになるから。深く考えずにいきたいものだなあ。

吃音もあるのかもしれないこと

 認めてしまう気がして、ずっとどこにも書けなかったけど、今日思ったから、書くことにする。私は、声を出すとき、家ではあまり気にしないけど、何回かはじめの音をバウンドさせないと声が出ない。今日は、毎回面談のときに聞かれる、「週末何してた?」という質問に、「起きてる時間が短いから、特に何もしてません」と言いたかった。口を「お」の形にして、息を吸って、吐ききらないところで喉に力を入れる。これは、声を取り戻していくにつれて確立してきた自分なりの方法だ。でも、今日は力が入らなかったか、入れても声が出る気がしなかった。それで絶望したというのもある。

 吃音だったけど、喋らないから気づかなかっただけかもしれないな。吃音の原因として、左利きを右利きに矯正することがあるらしい。(吃音と緘黙って似ているから、吃音の本とかを読んでいて知った)私は幼稚園ぐらいまでは左利きだった。だから可能性はあるな、と思う。

 たくさん書いたけど、文章を書く最大の理由である「分析」はできたと思うので、次、木曜日に行ったときに考えすぎないようにしよう。

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