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どこからが自分なの?

 1か月間、考えていた。特に、起きてすぐと、トイレにいるときと、鳥たちが出ていないとき。全然頭が働かないから、思考の進みも遅くて時間がかかってしまったし、書くときにいい言葉が見つからない。

 ふと気づいたのが、「どんな考えから始まっても、最終的に過去のことを考えている」ってこと。だから、今の問題たちはほぼ過去から来ているんだと思う。

 物心ついたときにはもう緘黙だったし、喋れないのは自分だけだということも理解していたし、だんだんと、普段は表現しない私が珍しく表現したりすると驚かれて変な空気になるんだと分かってきて、自分のことはあと回しか、無理やり押さえつけては奥にある箱にしまっていた。いつの間にか、その作業の方に慣れて、自分の中身が置いて行かれても何も感じなくなっていた。私は困っていないように見えただろう。そして、もし優しい誰かが「困ってることある?」と聞いてくれても、自分が何に困っているのか全く分からず、反応できずに逆に相手を困らせていたんだろうな。

 私がありのままでいて受け入れられる場所がほとんどなかった。「言わないと分からないよ」「テンポよく反応しなさい」「言えないから書く!」「体育できないなら評価もできないよ」…言ってる人は、いかにも「あなたのためを思って」みたいな感じだったけど、将来困らないようにとか、私には必要なかった。だって今それができなくて困ってるんだもん。将来のために、今のできないとか、したいを否定されてた。したくなくてしてないんじゃないんだよ。言えるものなら言いたかったし、すぐ反応できるならしたかったし、書いてすぐ伝わるなら書きたかったし、体育は目立たずに何も気にせずにできるんだったらしたかった。何事も積み重ねだ。私の意見はほとんど聞いてもらえないと決めつけるようになった。従わないことは悪いことで、私はできないから従えなくて、必然的に悪い子だった。諦めたように脱力して「喋らなくてもいいんじゃない?」と言われたことはあっても、「喋らなくてもあなたはあなただよ」「喋らなくても生きていけるよ」と強く私を認めてくれたことはなかったと思う。

 だから喋ることにこだわりがあるのかなと思う。喋らなかったら、存在してないのと一緒だったから。「話せるように」と約束したり、練習したり、とても将来を思ってくれていたと思うけど、それは「話せないのは悪いこと、変なこと」と私が自覚するのに充分で、自分を否定するのに大きく貢献した。

 そうやって、喋ることに尋常じゃないほどのこだわりを作ってきた私は、だいたいの場所で話せるようになったけど、皮肉なことに、それは「これまでの周りの人からの関わりのおかげ」だということは事実だ。喋れるようになって、喜んだけど、それはやっぱり「喋れないのは悪いこと」だと思っていたからなんじゃないか?自分はほんとうに自分なのか?誰かの操り人形なのか?でも、あのときの先生たちと話したかったのは事実だと思うし、話し始めたときの先生たちの反応は本気で嬉しそうで、最高だったと思う。だから、私の喋ることに対する思いを作ってくれた人たちを本気で憎むことができない。まあ、生きづらいのは確かなんだけど。頻繁に喋れなくなって、その度にどんどん自分を責めるから。これも「喋れないのは悪いこと」じゃなかったら起こらなかったかもしれないし。

 自分って空っぽだったんだね。奥にある箱を開けたら、何が入っているかな。

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