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離れたものは美しい

 この先、私はどうなっちゃうのかな。毎日、信じられないくらい寝ているだけの生活が不安になって、何かをしようとするときもあるけど、「何かをする」と考えることがまずできない。何をするか決めても、動く気力がない。

 こんなことなんてなかったから、おそらくどこかがおかしいんだろうけど、病院では何も言われないし、これが普通なのかもしれない。今までが気を張りすぎていたのかも。



 空を見るのが好きだ。雲を眺めて何かに例えたり、飛行機を探したり、虹を写真に収めたり、夕方のおしゃれな色が変わるのを見たり、星座を見つけたり。空は大きいから好きだ。空に何かを見つけると、文章に埋め込まれた感情に、そっと気づいて喜ぶときと同じ楽しさがあるから好きだ。小学生のときは、気象予報士になりたいと言っていた。はじめに空について疑問を持ったのは、車で夜の街を移動しているときに、月が付いてくることだった。ずっと窓の同じ場所にいるのはなぜなのか、不思議で仕方なかった。

 今も近くにいる人との境界を健全に作る技術が育たないままだから、遠くにある空が、ずっとそこにいて自分を受け入れてくれている大きな存在なのかもしれない。雨が降っても雷が鳴っても、自分のせいではない。空と自分の境界はちゃんとある。

 連帯責任とか、「自分で考えなさい」って言ったのに失敗したら怒られるとか、機嫌が悪いのを態度で表現して空気を読ませるとか、自分のことは何も話してくれないのに子供には隠しごとをさせないとか、本当は「(私は)できてほしい、やってほしい(と思ってる)」なのに、主語を自分にせず「なんで(あなたは)できないの、やらないの」と主語をすり替えて自分の価値観で責めるとか、ちゃんと「自分」を獲得すべきときに、私の範囲にノックもせず人が勝手に入ってくる経験が多すぎた。私は関係ないことでも、あたかも関係あるように思ってしまう経験が多すぎた。距離をとろうとしても、いろんな理由がついて動けなかった。だから、自分の気持ちを封印して、従える全てに従って、相手にとってのいいことをこなし続けた。そうした結果として、自分が思ったことが本当に自分の気持ちなのか分からなくなるなんて想像もしなかった。自分をなくして相手に従うことが最高に偉いことだと信じこんでいた。もうちょっと気づくのが遅かったら、自分も誰かを言いくるめることで支配しようとしていたかもしれない。逆にずっと誰かのために自分の全てを使っていたかもしれない。もう、どこかで誰かを巻き込んでいたかもしれないけど、これから次の被害が出ないようにすることはできる。自分を大事にすることで、周りも大事にできるんだってやっと気づいた。


 星空は、ひとつひとつが何年も前の光だ。どの星も別の場所にあるから、それぞれが光の速さで何年もかけて、地球に見える光を届けている。例えばオリオン座のベテルギウスは、640光年も離れているから、もし今爆発した光が見えたとすると、それは640年前にベテルギウスが爆発していて、その光が今届いたってこと。星空を見ると、宇宙の歴史が感じられる。私もその中の一員なんだ。

 地球も、遠くの星とか、違う銀河から見たら、星空の中のひとつとして輝いているのかもしれない。逆に、地球から見える光のうちのどこかに、私と全く同じことを考えて、空を見上げている生物が住んでいるかもしれない。近くのものに絶望してきたからこそ、遠くのものがより美しい。

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