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無題

こんばんは。いい夜です。
なんとなく文章を書きたくなったので、私自身のことをつらつらと。



私は自分自身の愛せる部分と愛せない部分が明確な人間です。
しかもその「愛せる部分」は、多数の誰かから素敵だね、好きだよ、と言ってもらった部分。


私は私のいいところを私の力では見つけられないし、そのくせ私のいやなところはいくらでも見つけられるし、1度いやだと思った部分はなかなか愛せない、そういう偏屈で、寂しい人間です。


そして自分で一度愛せないと思ったところは、何かしらそう思うに至る経験があるもの。
ひとつそんなものがあれば、100の言葉をもらったとしても覆ることはなく、
どんどんどんどん、歯止めが効かずにどす黒い塊になってしまう。


要は私はひとさまに生かされ、ひとさまに殺される感じの、自分ひとりでは生きられない性格。



その中で、特に困ったなと頭を悩ませるのが、「感情と理性があまりにも乖離している」ところ。


最近あった例をとりあげると、
これ以上尽くせば自分が壊れてしまう、いやもう壊れている、という状況があったとして、


どれだけ苦しくても、どれだけ周りが引き剥がそうとしてくれても、「たすけてあげなきゃ」という感情が私を支配してしまうんですね。


そして、「でも私がいちばん大切だし、私が壊れるほど無理をすることはない」という理性が勝ったとして。

でもこんな夜には「あのとき私が我慢をしていれば」「もう少しだけ優しくしてあげられていたら」などなど、感情がいっぱいいっぱい溢れてきてしまって、最終的には「ああ、私はなんて駄目な人間なんだろう。」となってしまうんですね。


「私自身を大切にしなさい」という理性、
「救える人なら救いたい」という感情、
どちらもまるで別人格のように私の中で対立している。

それって単なる葛藤でしょ?というレベルではなくて、本当に人生に支障をきたしているほど、私は私を制御出来ない日があります。


ごはんが食べられなくなったり、それで体重が激減したり、過呼吸をおこしてしまったり、人間不信を極めたり、そこまでしていてもやっぱり、理性が勝つことを悪い事だと思ってしまう。

そういう考え方さえしなければ、もっともっとまっすぐな心で生きていれたのにな、と思う。


だからやっぱり、誰かに「あなた理性で行った選択は間違っていなかったよ」「自分を犠牲になんてしなくてもいいんだよ」と言ってもらわないと、私は私を保つことができないんです、結局。


それはいい事でもないですが、悪い事でもないです。


まあだからといって何が言いたい訳じゃないんですけど、たくさん苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて、誰かに愛してほしくて、でもきっと今の私はそれを返すことはもう出来なくて、


生きてる、って感じがする夜です。
感情がふつふつと、また苦しくなってきたので書いてみました。


例に出したのがあんな感じですが、自己対誰かの問題においてああなりがちです。

誰かから誰かへの愛、誰かから誰かへの憎しみ、誰かから誰かへの要求、

そしてそれが自分に向けられた時、曲解を重ねて何もかも分からなくなってしまう。


自分にさえ向けられなければいいのにね、とも思うけれど、私が何ものにも巻き込まれない人生なんてたぶん歩めないだろうし笑



でも私が感情に押し潰されている日があれば、そっと隣に居てくれたらうれしい。



それでは、また。

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