京の夜空には赤々と梅田駅②


『大阪にーはーうーまいもんがーいっぱいあるんやでー!』
『たーこ焼きーに宇治抹茶ーに天一九条ネギー!』
『大阪にーはーおもろいもんがいっぱいあるんやでー!』
『任天堂にみーなみ座ーに吉本新喜劇ー!』

かつてこのCMソングが地上波で流れたとき、当時の京の人々は憤激に駆られ、放送局や観光協会を始めとする各所に猛烈なクレームを入れたそうだ。

“南座を吉本新喜劇さんと同列に扱うのは……どうなんですやろ?ウフフ”
“やっぱり地方の人らも、ほらね?抹茶とか九条とか聞かはって大阪イメージしはらへんと思うんですよもうちょっと……なんかあったんじゃないか?って…”
“天下一品さんはまだ歴史も浅いお店やし、名所みたいに扱うのもね…?大阪なら名所なんやろけど…”

土地柄によるものか、さいわい電話口で声を荒らげてのクレームはごく数件に留まったらしい。
これらのクレームに対し当時の大阪府知事は「大阪府民の貴重な意見として参考にします」と返答。京都人達は安堵のあまりに深いため息をこぼした。

このような歴史のある観光客向けCMソングは今も大阪の各所で流れ、それはこの阪京ヨドバシカメラマルチメディアトレインの内部でも例外ではない。

ドンキホーテのような雑多さでそこかしこにチェーン店が立ち並ぶ車内の天井スピーカーは、ヨドバシカメラで定番の“あの歌”と冒頭で記したソングの歌詞が違う別バージョン。それに加えてやしきたかじんの“やっぱ好きやねん”をローテーションで流している。
まあまあな音量ということもあり、テナント数の確保のためにフロアの天井がやや低くなっていることもあって妙に耳に残るのだ。うんざりする。と言ってもいい。

さかしらぶったよそ者は「え?スマホにイヤホン挿して別の曲聞けば?」などと、新幹線を降りてから一週間も経っていない分際で生まれてからこの街に住んでいる俺に訳知り顔で提案してくるのだが、そのような考えを実行に移す不心得者は全フロアに飛んでいるBluetooth電波で端末をジャックされ、メディア音はすべて車内のスピーカーとリンクされる洗礼を受けるハメになる。ゲームすらまともに出来なくなる。

この措置について当時の大阪府知事は「やっぱ好きやねんが、やっぱ好きやねん。ということで理解してもらいたい」とはにかみながら釈明。当時の京の人々は疲れきって何も言わなくなっていた。

『大阪にーはーふーるいもんがーいっぱいあるんやでー!』
『金閣寺ーにー……』
うるさい。黙れ。クソ。

黙れと念じて黙るような、脳波に反応するほど高性能なスピーカーが公共施設にあるはずもなし。俺は持参した耳栓を強く挿して鼓膜を外界から閉ざした。車内には動体センサーに反応した人体に向けて放射される指向性骨伝導超音波が飛んでいるためどのみちBGMは内耳で聞こえるのだが、どっちにせよ何の対処もしなければ内耳と外耳の両方で曲を聴くハメになる。やらないよりはマシなのだ。

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元々この列車はJR大阪駅。または北新地駅。あるいはナントカ梅田駅とも称される複数の駅を包括したコングロマリット鉄道ターミナルに併設されたヨドバシカメラであったのだが、旧京都を取り込んだ勢いをそのままに発展を続ける大阪府に伴い増加した利用者に対応すべく、巨大化した大阪駅に比例して肥大化したヨドバシカメラマルチメディア梅田はさすがに大阪の手にも余ったらしく、お天道様を遮って辛気臭くなったなどの理由で京都に移設したのだ。
京都の《鉄道路線》に。

「淀屋橋駅から始まるんや。阪京本線がちょうどええがな!」
……これは知事ではなく、当時の大阪府民の“一部”に強く支持された言説である。そうでない者もいたにはいたのだが、彼らはもれなく以前、京都府民と呼ばれていた人々であったとか。
かくして、阪京本線に移設されたヨドバシカメラは月一のペースで各駅に停車し、ヨドバシカメラ跡地は自然公園としての再開発を経て大阪人の憩いの場として愛されている。

『やっぱ好きやねん!……やっぱ好きやねん』

わかったから。もう。いい曲なぶんタチが悪い。

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スマホはあらゆるミュージックプレイヤーが強制的にアクティブになり、勝手に車内BGMがストリーミング再生されるのが電力消費の面でわずらわしく、電源はオフにしているので車内でコンスタントに時間を確認するには腕時計等の持ち込みが必須となる。そのためヨドバシカメラを利用する沿線の住人は漏れなく腕時計を巻いている。なんならスーツや制服以外の衣類を着て京の街を歩いている者が腕時計を巻いていれば七割がた沿線の住人と見てもいい。

例に漏れず俺もデジタル式の腕時計を一ヶ持っており、こいつとはかれこれ中学の入学祝い爾来、八年の付き合いになる。この相棒によれば俺が買い物を済ませるまでに要した時間は四十三分。あのアルバイトの繁忙期にも等しい濃密な―主に聴覚面での情報がウェイトを占める―時間は、信じられないことに小学校の一限の時間にも満たなかったらしい。

経過した時間と体感した時間の比率で計算すればたいへんに効率のいいひと時であったのだが、その中で成し遂げたことと言えば大した買い物ではなく、大型書店で古き良き《古都》を舞台にしたシリーズものの文庫本を一冊と、専門店で電子たばこの替えのカートリッジ二つ。
電器屋での買い物としてはいささか“ハズした”感のあるセレクトだが、ハッキリ言って電化製品などという、買うのを悩んでナンボな品物をこんなやかましい環境で吟味するなど
『何考えてはるん?』な行為なのだ。通販で買った方が絶対いい。
棚に詰まっている文庫本にはいずれもカバーがかかっていなかったが、車内の煩雑な静寂とけたたましい無音の只中では、数行の立ち読みさえ叶わないため、目当ての本だけさっさとレジに持って行った。本というものは静かな落ちついた場所で、座って読むに限るということをむざむざと痛感させられる。

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『まいどおおきにー!また来てや―!』

降車に十五分ほど時間がかかったため、だいたい一時間程度でヨドバシカメラを脱け出した。外の静寂は深刻と言っていいほどに退屈で、空しく、悔しい。踏切は相変わらず食い倒れ太郎の太鼓に合わせて警音を吠えてはいるが―逆だろうか―ヨドバシ車内に比べれば鳥のさえずり、犬の遠吠え、赤子の泣き声に等しい。外の静寂と中の喧騒を隔てるダイドーの言葉は、まるで音を消し去る呪文に思えた。

ホームの階段を降りる前、振り向いてヨドバシカメラを見ようとした。そこにはホームから見える景色をすべて塗りつぶすくろがねの壁が鎮座していた。あんなものは店でも電車でもない。壁だ。俺達はヨドバシカメラを壁としてしか見れない。

入ってから出るまで、一時間。あと二十三時間はこいつにこの踏切と、ホームの向こう側を閉ざされ続ける。

―――――嗚呼もっと我慢していれば。このみじめな想いを過ごす時間が短くなったのに。まだ中で粘っている人達はなんと意固地で強情なことか。
最初からあそこに入らずに自販機でたばこのカートリッジを買って、アーケードの書店でのんびり本を選んでいれば、穏やかなひと時を過ごせたのに。なんならたばこを我慢して近くの図書館に足を運んだってよかった。それなら一銭も使わない。

入らなきゃ負けたみたいで悔しいのに、入れば時間と金を無為に使ったみたいで後悔する。
早く出て行きたいと思っていたのに、もっと長居しておけばと後悔する。
アレに対してはいかなるアクションも後腐れしか残さない。

踏み入れば騒音と浪費の洗礼を、踏み入らずんば不本意に感じた事実に裏付けされた蹂躙の屈辱を。
脱け出せば待機の屈辱の中で忍耐せざる自分への後悔を、脱け出さずんばさらなる騒音と浪費の追撃を。

外に出たって目も逸らせない。目を背けたって踏切の警音は鳴り続ける。耳を塞いだって、そんなことしてる自分を思い知る。

………このヨドバシカメラ阪京線運行計画を、京住まいの人間への精神的圧力をかけることを目的に立案した《いけず》がもしもいるのならば。

―――――そいつはきっと、京都人に違いない。

【多分続く】

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