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因果を逆転せよ

ここ3日ほど5時半起きが続いた。出張で東京から大阪に来ている息子が我が家(実家)泊をしているからだ。朝6時に出て夜10時過ぎて家に帰る生活に付き合っている。要するに駅への車送迎係だ。それも今朝で終わった。

水曜日は可燃ゴミ出しの日。朝6時の送迎係を終えたら、残る仕事はゴミ出しだ。妻と二人暮らしだからゴミは少ないがそれでも出るものは出る。家中のゴミ箱(そんなにたくさんあるわけではないがあるにはある)を台所の裏口を出た土間に集めて市指定のゴミ収集袋に投入。袋の口をしっかり結んだら、玄関を出て西へ50メートルほど先にある地域指定のゴミ置き場まで運んで仕事は終わった。

日曜日に白菜苗を植えた。妻が実家からもらってきた苗だ。そんなにたくさん植えてどうすると聞いたら全部が全部ちゃんと育つわけないでしょと返された。あれから3日経つ。パッと見ではどうやらどれも大丈夫らしい。まぁ、さっそくところどころすでに虫に食べられた葉っぱもちらほら見えるが、まぁ、それはそれとして。

17世紀オランダの哲学者スピノザの書いた「エチカ」を読んでいる。ひとりで読むのは難解な本なので、読書会というものに参加している。このご時世、オンラインだ。便利。月1開催で、昨日が7回目だった。読書会は24回まで予定されている。わりと長い。というかすごく長い。

この読書会、この会ではゼミと呼んでいる。このゼミでは雑談もそこそこ多い。それがまたおもしろい。少人数だし、それぞれ知った仲だということもあっておもしろい。1回あたり3時間だが、あっという間だ。

昨日は、読書の途中で「目的は手段だ」というような話になった。決して「エチカ」の中にそんなこと、それらしいことが書いてあったわけではない。正真正銘の、これは寄り道だ。

「目的は手段だ」といったのは僕ではなく他のメンバーなので、ここでは僕の解釈でしか言えない、書けないのだが(わざわざ断らなくても、こうして書いていること自体、すべて僕の解釈でしかないのではあるのだが)。

その話は、早い話が、因果を逆転させるといった趣旨もので。原因があって結果があるということではなく、結果をこしらえることで原因をつくっていく、みたいな。

つまりその結果とか目的とかいうのは、実はどうでもよくて、というか、まぁありさえすればよいもので、重要なのは原因というか、つまりはその、そこに至る手段、やりようであって。その原因の方というか、手段ややりよう、やり方を、の方を、プロセスを、まぁいかにたのしむか。それを主体にして生きていきたい、というような。そこらあたりの話でした。

あぁ、やっぱりうまく言えない言えてない気がする。しかしまぁ、これこそが、いま言っていること(因果を逆転せよ)ということでもあるわけで。というのは「うまく書いてみよう」というのが、ここでは目的というか目指している結果で、そして「そのために工夫して書く」というのが手段、やり方なわけで。

この手段、やり方をたのしむということはつまり、うまく行かない、うまく書けない、ということそのことを含めというか、そのことそのもののありよう、うまくいかなさというものを存分にし尽くす、たのしむということなんで。

だから、この「うまく書けない」ということは、つまりその、ある意味、ものすごくたのしんでいる、たのしめている、ということなわけです。

あぁ。今朝は、ここまでやな。

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