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書くことの真っ只へ!

合宿5日目が終わった。これで合宿の全日程が終わったことになる。

書くことの真っ只中にいた。そんな5日間だった。僕がこの合宿にキャッチコピーをつけるとすれば「書くことの真っ只へ!」だ。

最終日の5日目は朝8時半から夕方4時50分まで、時間をかけて参加者4人が書いた文章の感想をシェアしあった。揃いも揃って1万文字前後のものばかり。結構な枚数。たっぷりあった。

ひとりひとりの文章のひとつひとつに、ひとりずつ感想を述べてゆく。その時間が何ともいえないいい時間。何とも書けないいい時間だった。合宿で共に書いてきた者同士でしか味わえない沈黙があった。言葉と声が響きあった。

書くことの真っ只中にいる感じがする。書いたものを読むこと読まれることで書くことの色合いが次第次第に濃くなっていく。鮮やかな色彩を帯びてくる。はじめは「赤い」と思っていたものが「朱」になり「橙」なり「紫」になり「白」に変わったりする。

書き手を離れた文章は読み手によって鑑賞されつくす。その現場に立ち会う。それはまさに書くことの真っ只中そのものだ。

合宿のはじまりは、オープニングミーティングからだった。よかった。主催の美緒ちゃんが、ぼそぼそと挨拶をはじめる。

5年前にはじめた企画だったこと。181時間の夏休みのフリーキャンプのはなし。大谷さんの企画に「やっと追いついた」。保ち続ける、考え続ける、持ち続ける、ということの意味。意志だけじゃそれだけじゃできない環境との巡り合わせ。自分のやりたいことをやりやすくする。

そのあとに大谷さんからの「言葉の表出@2020夏合宿」にむけて。1カ月前から困っていた、何を話そうかと。いろんなことを考えて。自己紹介にしようかな。いやどうしようかな。

比喩というのは、ただの飾りではなくてその人の思想だ。思想とは思う想うこと。言葉がちがえば体験が違ってくる。

本当にそうだなと思った。言葉って思ったり想ったりする場所。感じたり考えたりする場所。はじまりの言葉で背中を押される。

そして合宿ははじまった。さて何を書こう。何も決めていない。この合宿の中で何かを書く。決めていたのはそれだけだった。

一日目は、何も書けず書くことなく過ぎた。一日目の終わりか二日目。時間の確かなことは忘れたけれど書きたいことが浮かんできた。

浮かんだのは小さい頃に死んだ母のことだった。それも母が死んだ日のことだった。いまと同じ7月。夏の日だった。

はじめに「昭和41年7月4日。」母が死んだ日を書いた。そして「母の死んだ日のことはよく憶えている。小学4年の夏だった。」とつづけた。

もうこの書き出しがすべてだった。あとは書くに任せて書いた。躊躇することなくただ書いた。それは書くことの真っ只中にいた時間だった。

ただただ夢中で書いた。書いたというより何かに誰かに書かされているといった方が近いかもしれない。

ここまで書いてもいいのかということまで書いた。書き切った。書くことをするために参加しているんだからというのが自分にとってもいい口実になった。だから書けた。なりふり構わず書くことができた。

意志は環境でもある。主催の美緒ちゃんの言葉がいま思い出される。おかげで合宿3日目までの書く時間はとても充実していた。

3日間までの書き切った感じが4日目午前の整える時間を連れてきた。勢いで書いたものを少し眺めて手を入れた。そして締め切りにあわせて提出した。

5日目の最終日は読んで感想を言いあう日だった。

僕の書いたものが、みんなの目に触れる。読まれていく。それはとてもうれしいことだった。ひとりひとりの感想を聞くたびに自分の中に気が満ちてくるのがわかった。

白い紙に印字された言葉は自分で書いたものであってももうそれはいまの自分ではない。だからこその味わいもある。感想を聞くたびに発見や驚きもある。鑑賞を鑑賞として楽しめた。

今回、書いた文章のタイトルには「僕の合宿。」と付けた。最後、終わりの一行は「僕の合宿が終わる。」だった。ちょっときれいすぎたか。

しかしその通り。そのままの時間だった。そのことをそのまま素直に書き出せたことが何よりもうれしかった。書き残せてよかった。

合宿最終日を夕方16時50分に終えて夕御飯を食べながらビールと冷酒を気持ちよくいただいてから風呂に入った。風呂からあがって、そしていまこうして書いている。

気分が高揚しているのがわかる。 1802文字


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