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優しいだなんて言わないで

皆様は他人に褒められるとき、どう褒められることが多いだろうか。

僕は他人によく「優しい」という褒め言葉をいただくことが多い。

そしてその度に少しずつ心が削られていく。

結論からいうと「優しい」は褒め言葉ではないと思っている。
少なくとも僕はそういうふうに受け取っている。

今回はなぜ優しいが褒め言葉ではないのかをまとめていきたい。


そもそも優しいと呼ばれる行為はどのようなものだろうか。

例えば電車で高齢者に席を譲ること、
例えば落とし物を交番に届けること、
例えば落ち込んでいる友人に慰めの言葉をかけること、
例えば店員さんにお礼を言うこと・・・

みなさんも頭のなかでいくつか例をあげてみてほしい。

そうすると一つ見えてくることがある。
そう優しいと言われる行為や条件は、最低限の行動規範や社会通念を守っていれば誰にでも簡単に満たせてしまうと言うことだ。

長所とは他人にできなくて、自分にできることを指す。
つまり「優しい」とは長所ではなく”前提”なのだ。

そしてその上でもう一つ僕が訴えたいのは、優しいと言われる行為は、当人の性格としての優しさによって行われているものではないということだ。

先述の通り、優しさと思われていたものは「最低限の行動規範や社会通念」である。
逆にいえば「優しくない人」はその最低限を満たしていないということになる。

こと日本においては、同調圧力が強く社会通念から外れた「優しくない人」はたちまち白い目で見られてしまう。
ここから考えられるのは優しさとは同調圧力に屈した者たちの「臆病さ」の裏返しなのではないかということである。

ではどういう人間が「優しいね」といわれてしまうのだろうか?

結論からいうと「何もない」人間である。

例えばこんな場面に出会したことはないだろうか?

友人が新しくできた恋人の写真を見せてきた際、
容姿ははっきりいってパッとしないのだが何か褒めなければ気まずい。
しかし当然ながらこの恋人のことなど何も知らないのでどこを褒めればいいのかもわからない。

そんな時に出てくる褒め言葉こそ、

「え〜、優しそ〜。」

である。

つまり何もない(何もデータを持っていない)人間に対しての最後の砦のして「優しい」は存在するのである。

もう一つこんなパターンも考えてみたい。

企業の採用担当の面接官に
「あなたの長所を一つだけ教えてください」
と言われたとする。

そこで「自分は優しいです」という人などいるのだろうか。

仮に英語が堪能だったとして、その長所を押しのけてまで「優しい」をアピールする人などいないだろう。

「コミュニケーション能力がある」ことよりも「優しさ」を優先させる人もいない。

「論理的思考能力が高い」ことを隠してまで「優しさ」を推す人だってきっといない。

「スポーツで努力してきた過去」を水に流してまで己の「優しさ」を語る人がいたらそれは最適解とは言えないだろう。

他のありとあらゆる長所においてもきっと同じことは言える。

「優しい」は全ての長所(あるいは褒め言葉)対して下位に存在するのである。

ここまでの話をまとめると

・優しさとは前提である
・優しさとは臆病さの裏返しである
・優しいとは何もない人間に対して使われる言葉である
・優しいとはあるとあらゆる長所に対する下位概念である

つまり、
「〇〇君って優しいよね」
というセリフは、

「〇〇君って、臆病で何もない無個性な人間だよね」
といっているのと同義なのである。

だからこそ僕は言いたい。

優しいだなんて言わないで。

おわり

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