被害妄想語り「やりたいこと」

色々語りたいことを考えてたけどとりあえずこれが一番言語化しやすそうだったので。
140字で語るにはとてもじゃないけど鬱屈しすぎた被害妄想だったからここで書く。

+と-

感情というか、モチベの話。
「やりたい」と「やりたくない」って感情は当然相反するもので、逆のベクトルのものだと思う。
「興味ない」は一見中性っぽいけど「やりたくない」に属する気がする。

人間生きてればやりたくないのにやらなきゃなことも、やりたいのにやれないことも腐るほどある。労働せず寝たい。
やりたいことやれないのもやりたくないことやるのもストレス溜まるものだと思う。
それって感じ方の差異はともかく、基本平等な感情だと思ってる。やりたいことできないのとやりたくないことやるの、どっちが可哀想とか言い出すのはナンセンスだと思ってる。

ここから被害妄想

何となく、「やりたくない」が優先されがちな気がしている。
その理由も、何となくわかってはいる。

生きるためにおそらくほぼ全ての人類が我慢してやっている「労働」が生活の大半を占める以上、それ以外でやりたくないことを我慢してやりたくはない、というのも理解に難くない。

でも、「やりたい」の消化にも、ストレスはかかる。
「やりたい」を発散できずに生きるのは、そこそこしんどい。

昔からマイノリティであることが多く、歪な異物として輪の中に存在したことが多いから、被害妄想と厨二病拗らせてるのかもしれない。
みんな同じくらい「やりたい」を発散できずにストレスを溜めてるのかもしれない。
ちなみに独り身でこんなことを言ってる。世の中の子育てしてる皆さんすごい。

具体例

被害妄想の続き。
前にブログで「友人2人は競技プレメモに真面目じゃない」みたいなことを書いたら「お前とプレメモするの重いよ」ってコラを作ってもらったことがある。僕宛かはわからんけど多分何か記事でも「権利にこだわりすぎるな」みたいな話されてた気がする。

競技TCGも、調整チームも、ブログ運営も、動画部も、勝手に始めたながらに、みんなでやりたいって憧れがあった。
結論、うまく巻き込めずに今に至る。

「やりたいことに同調してくれる友人を探す」ではなく「友人をやりたいことに誘う」だったから、その濃度を友人に求めるのはナンセンスなのも、理解はしている。だからこその被害妄想なので。

それっぽい理論武装

何かをするには労力であれ金銭であれ何かしらのエネルギーを必要とする。
新しいことを始めるということは負荷が増えるということ。
何もしなければ負荷は増えないので、当然やるよりやらないが優先される。

が、やることで失うエネルギーと、得られる何かしらのふわふわした経験だとか体験だとか記憶だとかスキルだとかそういったものは=だと考えている。実質0カロリー。
お金使わなきゃ減らないけど使ったお金と買って手に入れたものは同価値でしょ?わかりづらいね。

で、このエネルギーと得たものの収支、あとやりたいとやりたくないのストレス値を=と仮定するなら、やりたい人とやりたくない人がいた時に、どちらも同じだけ尊重されるべきだよね、って話。

結論

まぁ被害妄想ありきで話したので、実際そうじゃないことはわかってる。
多分都合のいいことを言ってるだけで、自分自身、やりたくないことをやる方が嫌いな気もする。

それでもなんか、やりたいことがひたすらに行き場なく消化されていってる気がして、何らかのせいにして吐き出さないとやりたかったことも嫌いになりそうだったので。
今でも競技TCGも仲間内での調整もチームブログも動画部企画もやりたいと思ってるし、現実問題難しかったり、みんな自分ほど暇じゃないことも理解はしてるつもり。

動画とブログもサボって何書いてるんって感じだけど、吐き出したら多少スッキリした。
別に友人2人に宛てた記事じゃないので気にせずどうぞ。読んで不快なら叩いてください。

気まぐれで非公開にしたりしなかったりするかも。
また言語化できそうなものから吐き出しにきます。では。

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