円環の可能性

 ふと思い立ったので、しばらく散文を書いては人の目に晒すといった(非)生産的な活動を行うことにした。理由はさまざまなものがあるはずだが、現在制作中の作品のための息継ぎなのだろう。ていうよりかは、言い訳。言葉は安易に消化されるべきではないことは確かで、それはそうなのだけれど、そうしたプレッシャーからか、日々絶望感と焦燥感との奮闘を繰り返している。

 もっと、容易くすんなりと消費をして欲しいという思いから、推敲もなくただ書くための場所が欲しいという願望から、書いている次第である。先に書いたように、推敲や構成もせずに、思ったことを書くだけなので、何もかもを気にしないでください。





 今日はとあるイベントに足を運ぶ予定があり、知らない街に訪れた訳なのだが、時間をちゃんと見ておらず、少し早い時間に着いてしまった。しかしなんと、駅にサンマルクが入っていたので、迷わずサンマルクに入店。みなさん、サンマルクのチョコクロワッサンを食べたことはあるだろうか?無論、世界で一番美味しい食べ物である。そもそもまずいチョコクロワッサンはこの世にないのだけれども。(ちなみに、サンマルクのブレンドコーヒーは全くぼくの好みに合わないので、コーヒーを飲む場合はアメリカンを頼むのが良いと思う)





 昨日、吉祥寺のみんな大好き『百年』という古本屋で、入沢康夫著『詩の構造についての覚え書』という本を買った。これがびっくりするくらい面白かった。(後からTwitterで調べると、千葉雅也がこの本についてツイートをしてた。千葉雅也はこの世の全てのことをツイートしていると思った(なお、TwitterのことをわざわざXと呼ぶのは愚者の所業である))

 ぼくはどうしても何かを作ったり何かを論じる際には、それについての形式的・構造的な知見を気にしてしまう。それは、詩を書くということにおいても同様で、最近は詩作よりも詩の構造についての本をよく読んでいる。

 入沢康夫は本稿の中で、詩行為について下記のように論じている。

詩作品は「言葉関係」そのものを素材化し、その構成において成り立つものとして、いわば《関係の関係》である。したがって、詩行為とは、詩人とこの《関係の関係》との関係であり、また、《関係の関係》との読者との関係において成立する行為であることになる。

入沢康夫『詩の構造についての覚え書ーぼくの「試作品入門」』より


 か、関係の関係の関係!?おったまげ〜!であった。戦後の現代思想にはこのようなヒリヒリするような表現が多くあるから楽しい。勿論ただ揶揄するためにこのような引用を起こしたわけではなく、とんでもなく示唆に富んだ表現であるため、ちゃんと説明を試みる。がんばる。

 関係の関係の関係について説明するためには、まず、《関係の関係》についての分析から始める必要があるが、そのためにはまず、言葉の関係について説明をする必要がある。

 入沢は人は言葉と《現実的関係》《非現実的関係》の二通りの仕方で関係をしていると説明している。《現実的関係》とは、紙に書かれたインクの線や振動数と強弱と音色を持った音の連なりとしての関係であり、ぼくたちの意識とは関係のなく持続する関係のことである。それに対し、《非現実的関係》とは、言葉を意味において、あるいはイマージュとしての関係であり、ぼくたちの意識の変化によって消滅してしまう関係である。

 「りんご」を例に挙げて説明するが、「りんご」における《現実的関係》とは、りんごという字の連なりやりんごという音の響きで、《非現実的関係》とは、りんごという言葉によって想起されるもの(赤くて美味しいあの果物)との関係となる。後者の関係は、言葉と言葉に表されるものは恣意的であり、ぼくたちがその意識を失った瞬間に消滅してしまう関係なのである。

 「りんご」という言葉における両面の関係を説明した上で、結局のところ言葉はその関係だけを切り抜いて使用されることはほとんどなく、5W(What, Who, Why, When, Where)に起因するあらゆる文脈上の関係に置かれることになる。つまり、言葉は状況においてあるということが言える。これが、《関係の関係》の状態である。

 詩人は、こうした《関係の関係》としての言葉を素材(語・句・文・節など)として、詩を作る(素材同士を特定の関係に置く)ことであるから、詩行為とは《関係の関係》との関係であるということが言えよう。

 ということである。入沢康夫に詳しい方がいたら、存分に指摘してください。こういったことばかりをしているせいで、思想ばかりが頭でっかちになって、一生制作が捗らない気は大いにする。ただ、「百聞は一見に如かず」とは言うが、一聞が百集まれば大層な一見になることもあるだろうという気持ちは捨てずに持っておきたい。





 本当は「円環の可能性」という題名でどこか別のところをこうした散文を載せる場所にしたかったのだけど、新しく場所を探すのも作るのもめんどくさくなり、noteに逃げてしまった。なので、仕方なく本稿のタイトルにする。

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