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写真の上の情報


写真を撮るとき、なるべく要素を排除して洗練されたものにしたくて、撮影対象を極端に絞った構図にこだわっていたこともあった。

この頃、古い写真やそれほど前でなくとも過去に撮った写真を見返すと、一つの画面に収められた情報が多ければ多いほど、その時間に存在したより多くのものを記録し、写真の中に保存されたそれらは記憶を呼び起こすトリガーになるということを実感する。意図的に要素を排除して撮影する、抽象画やグラフィックデザインのような写真はもちろん奥が深いけれど、今の自分にとってより大切で、残したいのは、そこに同時多発的に存在した無数の歴史の一場面。
取り立てるほど華やかでもなければ珍しくもない、その時そこにいた人間にとってそのひとつひとつは取るに足らぬ程度の、記録に残すほどでもない普遍的なある日のある瞬間は、二度と再現されることなくやがて全て失われるものであるということを、写真は痛感させる。一枚の動かない画面に残された光景は究極のフィクションのようであり、しかしかつて確かに実在し、この目が捉え、この身体が知っているものなのだと。


ぼんやりとそのようなことを思って近頃の自分は写真を撮っていることに、祖母が数年前に使っていた携帯の写真を取り出し、ふと気がついた。

カカドゥ国立公園
どこまでも広がる草原を見下ろす岩の上
ダーウィン、アデレード・リバーのワニ


それと、情報の多い写真は面白い。
わたしは絵本の「バムとケロ」のシリーズが昔から大好きで、あの絵の中にある数え切れない情報や小ネタをいつまでも探す時間がとても楽しかった、それを思い出すからでもある。

ダーウィン空港



(本文中の3枚の写真は祖母の撮影したものを拝借)

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