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3年目のD&D生活へ

2022年、D&Dを40年間遊び続けているロバート・ワードホー氏を知り、そしてそのゲーム体系に憧れ、D&Dの世界に足を踏み入れてそろそろ2年が過ぎる。

D&Dどころか、TRPG自体を共に遊べる相手がいなかった私は、X(当時『Twitter』)にて所謂「野良」募集をし、ダンジョン・マスターとしてゲームを運営し、今日まで遊んできた。
初めて募集を開始したのは、2022年8月25日の事であり、程なくしてDiscordのサーバーを立ち上げ、自分が遊ぶついでに、D&Dを布教してユーザーを増やせないか、それによって自分が人を集める際の敷居を下げられないものか、と活動したりもした。


一般的な層とのズレ

日本におけるTRPGシーンにおいて、『クトゥルフ神話TRPG』が圧倒的賑わいを見せていることは言うまでもないだろう。そしてこの記事を読むような人であれば大方、「シナリオベースで遊ぶ」というような形式が主流である事もわかるだろう。

ではD&Dはどうかと言えば、“同じ” である。予めエモーショナル(ナラティブ)な体験をする事が、“結果的にある” あるいはそうなるだろうことを “見越す” ことはあっても、“前提” としたような構成の、それこそ「物語重視」のアドベンチャーを遊ぶことこそ少ないかもしれないが、公式やサードパーティで販売されているアドベンチャーを遊ぶ、あるいはそういったものを(アドベンチャーのタイトルまでつけて)卓用に作ってから遊ぶ、というのが、Xの観測感ではあるが、圧倒的に多い。というよりそれしか見かけていない。いや、正確には「そうでないものと見分けがつかない」のかもしれない。

さて、私もこうした遊び方をこれまでしてきた。理由は色々あるが、つまるところ誰にとっても「とっかかり易い」のだ。
しかし、それが私の本当にやりたいセッション、キャンペーン、D&D、ではないということにも気付いた。いや、思い出したのかもしれない。

『DM』になる

『ダンジョン・マスター』とは、キャンペーンの制作者であり、物語の語り部であり、俳優であり、審判である。世界を作り、冒険を作り、ルールを作り、それらを管理する。
自分の世界を作り、プレイヤー達がそれを動かし、誰も予想できないあらゆる方向へとゲームを進化させていく。

冒険はずっと続く。キャラクターが死ぬか、引退を宣言してDMにNPCとして託すまで。そのキャラクターの冒険が終わっても、次のキャラクターの冒険が始まる。ゲームは終わらず、世界は常に動き続ける。プレイヤーやキャラクターの行動選択や運によって、現実世界のように変化していく。長距離の移動や必要な一日の飲食、重量、これらのルールも全て使う。ゲーム内の時間で毎日天候の表を振り、モンスターを倒せばポケットマネーをロールで決め、ダンジョンの置にはランダムな財宝が眠る。「この日はこれをやる」というのは決めない。決めるのはプレイヤーとそのキャラクターであり、DMが決めるのは「起こる事件」だけだ。見過ごして世界の崩壊を招くも、勇敢に立ち向かうもプレイヤーの自由だ。

これこそが私が胸焦がれ渇望する「ダンジョンズ&ドラゴンズ」、そして「ダンジョン・マスター」なのだ。

あとはやるだけ

『ダンジョン・マスターズ・ガイド』と『ザナサーの百科全書』にはこうしたセッションをやるのにピッタリ過ぎる情報やルールがゴマンとある。サードパーティ製品を漁ればもっとだろう。だがそれ以上に、アイディアが頭の中にあり、これまで培った経験でそれをどうすればいいのかは直ぐにわかる。

世界はもう大枠が既に出来上がっており、レギュレーションも確定している。あとは部屋を作り、参加者を募り、セッションの中でプレイヤーと共に細部を描き、変化させていく。それだけだ。

もし参加者が誰も居なかったら、あるいは途中で誰も居なくなったら、その時はD&Dから身を引く時だろう。

神々と混沌の争いのあと、巨人が制し、竜が制し、その果てに人が王となって間もない時代から始まる無限の冒険に、神々の去ったルーンツリー世界に、踏み入れるプレイヤーが居ることを、切に願う。
参加者数に上限などないのだから。

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