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不自由な春に恋しいもの(はなり亭で会いましょう特別編)

こちらは2020年春に行われたフリーペーパー交換会「すりすり会」参加用のペーパー用に描き下ろした小説「はなり亭で会いましょう」の特別編となります。
↓小説本編のプロトタイプ版も公開してます↓

また委託販売などでも頒布しています。

不自由な春に恋しいもの

 感染症拡大を防ぐ対策として、絢子の勤め先でも、営業課を中心にリモートワークが導入され始めた。そのため営業所に出勤している人員はごく少数。多くは自宅から直接担当先に訪問したり、会社貸与のリモートPCを使って自宅で資料作成をしている。
 しかし絢子の所属である事務課はというと……リモート化できる業務がほとんどない。一応、通勤時の三密リスクを避けるため、先日から時差通勤を行っている。
「……ではA社の担当者宛に、カタログ一式と、海堂さんが作成した見積書を発送すればいいんですね?」
『そー、そー。悪いね~事務課の仕事、増やしちゃって。でも見積書には社印押して出さないとだしさ』
「別にそれくらい承知してます。用件は以上ですか?」
 判子文化というのは、判子ならではの味わいや面白さがある反面、こういった弊害があるものだと、改めて思い知らされる。以前、社印もデータ化し、各種決裁伺などもすべて電子化しようという動きがあったが……一部の幹部からの一声で潰されたと聞く。おかげで絢子は、捺印が必要な営業達のために、毎日出勤しなければならない。今も自他共に認めるトップ営業員・海堂からの捺印を含む書類発送作業の依頼を受けている。
『あ、ゴメン、ついでで悪いんだけど、昨日マユちゃんにプレゼン資料の印刷を頼んでたんだけど、完了報告がなくてさー。どうなってるかフォローしといてもらえる?』
「直接マユちゃんに聞けばいいのでは?」
 それでなくても、通常業務外の処理が増え、営業所にいる人間が少ないがために電話対応にも追われている。後輩が請け負った作業の進捗管理まで、どうして絢子がやらなければならないのか。苛立ちを感じながら、絢子は電話の向こうにいる海堂に苦言を呈する。
『そう言わないでさ。お姉さんらしくフォローしてあげてよ』
 これ以上、反論したところで恐らく時間の無駄であろう。そう判断した絢子は、適当に返事をし、海堂との通話を終えた。
 さてマユちゃんはどこにいるのか。フロア内を見回すと……久しぶりに営業所に顔を出した、営業課のミサコちゃんとおしゃべりに花を咲かせている様子。こんな時に無駄話ならばやめてほしい。それに距離も近すぎる。二人とも、感染症対策に関する意識が低いのではないだろうか?
 若い女性社員二人に対して注意をし、マユちゃんには海堂に依頼された作業の進捗を確認すると、作業自体は終わっていたが、その旨を報告していなかったらしい。頼まれたことが終わったのなら、その報告をするように注意を続けると、マユちゃんは弱り切った仔犬のように落ち込んだ様子になった。
 どうしてそこまで落ち込む必要があるのか? 絢子としては別に、強い語調で言ったつもりもない。どうにも彼女は、注意や指摘を受けることに慣れていないのか、絢子が少し指導するとしょげてしまう。請け負った仕事の進捗確認だけでなく、メンタルケアまで絢子の仕事にされては、つくづく割りに合わない。

 いつもにも増して、疲れを感じる勤務を終えた絢子は、帰りの電車に揺られながら、気晴らしに自宅の冷蔵庫で眠っている日本酒でも開けようかと考える。桜のプリントがあしらわれた、喜楽長の春限定酒を先月買ったものの、開ける機会がないままなのだ。冷蔵庫にある食材で適当に肴を作り、家飲みも悪くない。
 とはいえ、できればどこか居心地のいいお店で、一人飲みの時間を楽しみたい気分なのも事実。しかしこの状況下、営業自粛をしている店も多い。また自粛していないお店は、何重にも対策を施しての営業だ。
 今のところ自分は感染を疑うような症状があるわけではないが、万が一、既に感染しているのに気づいていないのだとすると、自分が感染を広めてしまう危険性もある。そうなれば、せっかく営業してくれているお店に、どれだけ被害を与えてしまうのか……考えるだけで恐ろしい。
 お店に行って、営業を応援したい気持ちはあるが、果たしてそれが正しいのか、絢子には判断がつかなかった。やはりしばらくは家飲みを楽しむしかないだろう。
 駅から自宅までの道の途中、ある店の前で絢子は足を止めた。よく一人飲みに行くお気に入りの店「はなり亭」である。先日より、数日間営業を自粛する、との張り紙が出ていたので、今後どうなるのか気になっていた。

テイクアウト営業始めます!

 店先には営業自粛のお知らせに変わり、新たな告知が大きく掲げられ、暖簾の向こうには灯りが灯っている。
 飲食店が新たにテイクアウトを始めたとて、通常営業時の売上を回収するには遠く及ばないだろう。テイクアウト用の容器なども新たに調達せねばならず、テイクアウト専門店と比較すると不利な要素は多い。
 それでも何とか、店の灯を絶やさないための方策なのだろう。
 絢子の足は自然と、はなり亭の中へと向かった。
「いらっしゃいませ!」
 店の中に入ると、いつものように調理場から店主である御厨が迎えてくれる。絢子は彼の声を久しぶりに聞いたように感じた。
「テイクアウトを、お願いします」
「ありがとうございます。何にしましょ?」

はなり亭テイクアウトおしながき

 いつものお品書きとは別に、専用のメニューリストが用意されていた。御厨に内容を確認し、絢子は晩酌弁当を購入することにした。
「この数日、色々考えたんですけど、しばらくはテイクアウトに絞ってやらしてもらうことにしたんです」
 絢子の場合は会社勤めであるため、営業自粛などの措置が取られたとしても、自身の収入に大きな変化はない。せいぜい、個人負担で用意している、マスクや消毒薬の出費がかさんでいるくらいだ。
 しかし御厨の場合、店を閉めている期間の収入は発生しない。だからといってこれまで通りの営業では、様々なリスクがある。考えた末のテイクアウト専業なのだろう。
 ならばはなり亭のために、絢子ができることは一つ。一回でも多く、テイクアウトで利用することだ。いつかまた、いつものはなり亭で過ごせる日が来るように。
「お待たせしました、晩酌弁当です」
「ありがとう、また利用するわね」

 帰宅した絢子は入浴後、片づけを済ませると、はなり亭で購入した晩酌弁当の蓋を開ける。中には鶏つくねバーグ、チキン南蛮、若竹煮、だし巻き卵。そして〆に少し食べるのにちょうどいい量の山菜ごはん。そのまま食べたい欲求を抑えながら、手持ちの食器に移し替え、お気に入りの酒器を用意して、絢子は喜楽長の桜ボトルを開栓した。
 お弁当形式での提供を想定しているためか、冷めても美味しいように味付けが調整されているようだ。ここ数日、店を閉めている間に、御厨が試行錯誤したのだろう。美味しく食べれるようにと、心を尽くした工夫に、温かな気持ちを覚えるが、やはりお店で食べる時間が恋しい。
 調理場から聞こえてくる音や、お客さんたちの歓談を聞きながら、御厨の料理を味わうひと時。気が利くアルバイトの女の子に日本酒のメニューを教えてもらって、料理との相性を考える。そんな日常を、早く取り戻したいと願うのだった。

果てしない自由の代償として、全て自己責任となる道を選んだ、哀れな化け狸。人里の暮らしは性に合わなかったのだ…。