感動を届けるためのスポーツ??

1年遅れで開催された東京オリンピック2020が約2週間の日程を経て終わりました。そもそも開催の是非が問われている中で行われたり、開会式と閉会式のショボさや、それに関わる不祥事等々、議論すべきことはたくさん残ってはいますが。

この世界的な大運動会で、出場した選手たちにはレベルの高いパフォーマンスを沢山見せてもらいましたが、大会前にはその選手たちの口から「スポーツを通して感動を与えたい」だとか「この困難な状況だからこそスポーツで希望を」というような言葉がチラホラと聞こえてきていました。その言葉を本心で言っているのか建前上で言っているのかはわかりませんが、そのような言葉自体は間違っているし、傲慢だなと思います。

「感動」は作れない

まず強調したいのは感動とは一個人の一感情であることです。スポーツを見て感動することを否定しているのではありません。懸命に自分の持っている力を振り絞り、頑張っている姿を見て心が動くことはもちろんあるでしょう。しかしそれは受取手の中で生まれ、完結するものです。間違ってもスポーツ選手がそのパフォーマンスによって「感動」を製造し、受取手がそれを享受するというような関係ではありません。

感動的なスルーパスとか、感動的な送りバントとか、感動的なスプリントとか、感動的な右ストレートとか、そんなものはありません。感動をさせるためのゲーゲンプレスやポジショニングはないですし、それらを行うのはそのゲームで勝つための手段、戦術です。「感動」を作るためにそれらを行うのだとしたら、それはスポーツ、ゲームへの冒涜とまで言っていいのではないでしょうか。間違いなく、サッカー男子準決勝、日本対スペインで実況者が連呼していた「想いを繋ぐドリブル」なんてものは存在しません。

画像1

個人の中でどう「感動」は発生するのか

では「感動」は個人の中でどのように生まれるのか。「感動」それ自体は見る人個人が目にしている、または暗黙のうちに理解している「文脈」であったり「テクスト」の上で見出されるのだと思います。状況や展開、または背景などの情報を念頭において観るからこそ、心を揺さぶる瞬間がある、同時に揺さぶらない瞬間があるのではないでしょうか。例えば、同じ動作、同じパフォーマンスをしてもメダルがかかっている状況や1点差の攻防の展開と、大差で勝敗が決しているような状況では見え方、ましてやそのプレー、ゲームへの見方それ自体が異なると思います。したがってこの観点に立てば、「感動」を生産する主体はスポーツ選手、プレイヤーではなく、それを見ている観戦者個人であると言えます。

スポーツと感動という神話作用

というように書きましたが、ここまではある程度個人が自律的に「感動」を見出すことができる主体であるということを前提にこの文章を展開してきました。しかし一方で疑問が残るのは、上記で言及した「文脈」「テクスト」自体は個人が産出したものではなく、予め用意されていたものではないかということです。つまり、その文脈やテクストの上に乗っているからこそ「感動」を見出せるのではないかということです。そう考えると、個人の主体性の幅は狭くなる気がします。そこではある意味定型化した、「この状況・展開・背景があるから感動する」というような「神話」がすでに出来上がっていて浸透していて、個人の「感動」はそれに沿っているだけということなのかもしれません。逆説的ですが、この「神話」があるからこそ「スポーツで感動を与える」という言葉がお経のように出てきたり、実況者が「想いを繋ぐドリブル」なんていう寒い言葉を発してしまうのかもしれません。

まとめ

今までの記事の中で一番何言っているかわからない記事になってしまいました。特に最後の神話作用のパートに関してはもう少し加筆・修正が必須でしょうし、また「感動」を消費されるものとして捉えるなど、「感動」それ自体を掘り下げて論じていくことも必要かもしれません。ただ今のところ更に論を展開しきれないのと、なるべくこのタイミングを逃したくないので公開に踏み切ります。

しかし、上記で言及したようにスポーツのプレーやゲームそれ自体が「感動」ではないということはもう一度強調して終わりたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?