汝、その名を口にするなかれーあるクジャクサボテン育種家の物語
太陽の光を浴びながら美しく咲き誇るクジャクサボテンのかつての品種名を知る人はほとんどいない。温室を訪れる人たちはただそのあでやかな色合いに感嘆し、カメラを向けるだけ。
そのクジャクサボテンにはかつて品種名にある人物の名前が冠されていた。その人を世界中の誰もが知っていて、よもや忘れ去られることはない。ただその名を気軽に口にすることができるのは一部の狂信的な信奉者だけ。多くの人はその名を嫌い、一瞬ためらってようやく口にする。その名前にまとわりつく忌まわしい歴史の記憶が心の中にどす黒く立ち上がってくるからだ。
どうしてこんなにも美しい花を咲かせるサボテンに、独裁者と同じ名前を与えようとしたのだろうー
◎クジャクサボテンの育種家、クルト・クネーベル
ピンクと白の愛らしいクジャクサボテンを作出したのはザクセン州・エアラウのサボテン育種家、クルト・クネーベル(1871ー1954)。400近い新品種を生み出し、今でもその世界では名の知られた育種家だ。
彼が亡くなったときに専門誌に寄せられた追悼文などを中心に彼の歩みを振り返ってみよう。
クネーベルは列車の保線係を生業とする父をもつ、子沢山の一家に生まれた。植物好きは父譲りで、庭師の道へと進むべく1885年から見習いを始めた。そして何カ所かで修行を積んだ後、1894年に自らのナーサリーを開いた。スイレンを扱うという以外は特段変わったこともなかったが、知り合いにクジャクサボテンの世話を頼まれたり、ドイツの育種家が作った新品種を手に入れるにしたがって自らも新品種の作出を手掛けるように。1904年にナーサリーを売却すると、本格的に育種家へと転身した。私生活でも妻・セルマと同年に結婚し、1男3女をもうけた。
◎品種リストにあらわれる独裁者の名前
彼が作出した品種を列挙したリストをたどっていくと、戦後になって改名された品種名と元々つけられていた品種名がかっこ付きで記されているのが目に入る。
かっこの中にはドイツの独裁者、イタリアの独裁者、ナチスの宣伝大臣、そして最近、映画で話題となって注目されたアウシュビッツ強制収容所の所長の妻の名前などもあった。いずれも何百万人という犠牲者なくしては語ることのできない人物たちばかりだ。
なぜそんな彼らの名前を品種名としたのか。
今となってはクネーベルの人となりを知る術はほとんどない。数少ない手がかりとなる追悼文を読むと、その冒頭は「私たちの友人の中でも最も我の強い一人が逝った」とはじまる。クネーベルを評しては「家から学んだのは純粋さと義務に対する忠実さ。家の暮らし向きは楽ではなかったが、それでも慎ましさとたゆまない勤勉さが才能にあふれた彼を前へと押し進めてくれた」とする一方で「彼は落ち着きはらっていて、神や世界、そして育種について独自の見解をもっていた」と続く。故人にむち打つことはしない、追悼文ならではの控えめな書き方ながらもかたくなな思想信条を持った男だったことがうかがえる。
◎登録されたのは1935年
独裁者の名を冠した品種名が付けられたクジャクサボテンが登録されたのは1935年だ。正確に書くと、独裁者の名が「国民宰相」という肩書きとともにつけられている。この年、ナチス=ドイツはヴェルサイユ条約の軍備制限に違反し、徴兵制を復活させた。またニュルンベルク法によってユダヤ人排斥政策を押し進める法整備がなされたのもこの年。そして転げ落ちるようなスピードとともにナチスは過激化し、ついに1939年にドイツがポーランドに侵攻して、第二次世界大戦がはじまった。
戦時中は食糧となるものの栽培が奨励され、観賞用の花を栽培することはまかりならず、結局クネーベルが品種改良用に育てていたクジャクサボテンは1945年から46年の冬の寒さにやられ、ほぼ全滅したらしい。
戦後になって、ドイツの独裁者の名前はアメリカのサボテン育種家の名前に、宣伝相はクネーベルの本を編集、出版した人の名に、強制収容所所長の妻の名はギリシャ神話に出てくる「エレクトラ」にとそれぞれ改められた。
そしてクネーベルは1951年にクジャクサボテンについての本を執筆し、その3年後に亡くなった。
◎クネーベルが生きた時代
独裁者ばかりに目が移りがちだが、彼が作り出した品種には両親、兄弟、妻、子供たちと家族一人一人の名前が付けられていたり、友人、知人、修業時代にお世話になったと思しき人物の名前も数多く散見される。
例えば父親の名前を付けた品種名は「保線マイスター、オズワルド・クネーベルを記念して」という。実は私はこの品種に10数年前に出会っている。挿し穂でこれを含め30種類くらい増やす作業をしていたのだが、ラベルを書き写す際に、何だこの長ったらしい、植物にふさわしくない名前は!と強烈に思ったので忘れられないのだ。
この命名が父親への思慕ゆえと考えれば、あんな時代に生きてさえしなければクネーベルは、サボテンの育種に情熱を注ぐような頑固で変わり者であっても、「良き息子、良き父親、良き市民で優れた育種家」に過ぎなかったのかもしれない。
彼が生きたのはどんな時代だったのか。ネットで当時のドイツの空気を説明している文章を見つけた。
今では名を口にすることがはばかられるような独裁者を生み、支持したのは決して特殊で特別な人たちではなかった。彼らは大多数を占めるいわば「普通の」市民。クネーベルはその無数にいた「普通の」市民の一人にすぎなかった。高揚の時を経て、政権の実態を知って心が離れていった人もまた多くいたろうが、クネーベルは恐らく、最後まで後悔どころか省りみることもなかったかもしれない。
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人間は美しいものも作り出すことができるけれど、とてつもない悪を生み出すことだってできるのだ、とピンク色のクジャクサボテンは訴えてくる。
連合国軍がフランスを奪還するためノルマンディーの海岸へ上陸したDデイを祝う6月7日の80周年式典に10年前のセレモニーには同席していたある国の元首の姿はなく、その名は誰の口にのぼることはなかった。
20年以上君臨し続けるその彼の国では、彼を敬愛する誰かが彼の名を冠した品種の植物を育てているのだろうか。
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