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ドイツ人の偏愛野菜、白アスパラガス   その2

アスパラガスシーズンもハーフタイムの5月中旬に入って、ドイツ人が愛してやまない白アスパラに「貴婦人の指先」と「野菜の女王」という2つの別名があることを知った。

そうか!相手が気高いレディならばこちらが足蹴にされたのも合点がいく。相当の愛を持って挑まねばつれなくされるというわけね。ならば私のアスパラ愛を大きく育少しでも相手のことを知るべくドイツのアスパラ栽培で最も古い歴史のあるシュヴェツィンゲンへと急いだ。


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バロック・アスパラ・文化の街、シュヴェツィンゲン

シュヴェツィンゲンは古都ハイデルベルクから南西10キロに位置する「バロック・アスパラガス・文化の町」。列車の駅からすぐ近くにある目抜き通りに入ると、角刈りのように上部がキレイに切り揃えられたセイヨウボダイジュの木が整列していて、そこはかとなく華やかな雰囲気が街に漂う。通りの突き当たりにはシュヴェツィンゲン城の入り口が見えた。


アスパラ栽培とゆかりの深い城が登場したところでちょっとこの街とアスパラの歴史を振り返ってみよう。

1648年まで続いた30年戦争によってシュヴェツィンゲンの村も狩猟用に建てられていた城も壊滅状態に。そこにプファルツ選帝候、カール・ルートヴィヒ・1世が2年間かけて城を再建した。

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内縁の妻と13人の子どもとともに住んだ城のキッチンガーデンには野菜、ハーブ、果樹が植えられ、1668年5月22日に庭師と交わされた栽培契約にはカリフラワー、アーティチョーク、キュウリと一緒にアスパラが記されており、これがシュヴェツィンゲンでのアスパラ栽培の始まりとされている。

ルイ14世がアスパラのトレンドセッター

古代ローマの時代から珍味として知られていたアスパラがこの時代に欧州の貴族階級の食卓を飾るようになったのは隣国フランスの太陽王、ルイ14世の影響による。彼は今でいう当時のトレンドセッター。そんな彼がベルサイユ宮殿で作らせ、食べたとあらば他の貴族もこぞって真似をしないわけがなかった。

後にシュヴェツィンゲン城をバロック様式の夏の離宮として現在のような豪華絢爛な建物に大改修させた選帝候カール・セオドアも1778年にミュンヘンに移るまで、庭園にアスパラガスを栽培させていたという記録が残っている。

その後、貴族の専売特許だったアスパラ栽培は広く普及するようになり、シュヴェツィンゲンで大規模に作られていたホップの価格が急落するとともに拡大生産されるようになった。さらに1870年のラインバーンの開通に押されるように全国に知られるシュヴェツィンゲンの名物へと変化していったのだ。

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今も残るアスパラ市

城前の広場でシーズンになるとアスパラ市が開かれるようになったのは1894年から。一時期のにぎわいぶりを感じるよすがとして広場には銅像がたっている。売り子の女性が台にアスパラを並べ、向かい側には買いに来た女の子がかごを台の上に置いて女性がアスパラを入れてくれるのを待っている微笑ましい情景。


銅像の横ではこの日も3軒のアスパラ屋台が立っていた。3軒ともそれなりににぎわっていたのだが、アスパラを並べ直したり、プラスチックの折りたたみ箱持参で買いにくる馴染みのお客さんの相手をしたりと一番かいがいしく働いていたおじさんの所で買うことに決めた。


長さや太さ、形で異なる品質等級や、皮をむいたのとむいていないの、柔らかい穂先や折れてはじかれた寄せ集めなど色々あってなかなか決められない。「ゆっくり考えていいから」と言ってくれたおじさんの言葉に甘えて考えたあげく、1899年に改良された伝統品種「シュヴェツィンガーマイスターシュス」の2級品を500グラムほど手に入れた。皮も悩んだけど少し荷が軽くなるし、調理も楽とあってやっぱりむいてもらうことに・・・(アスパラよ、些細な手間を厭う私を許して…)。

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アスパラルートに沿って農家を巡る

さあ次はアスパラルートに従って農家を見に行こう。街中から自転車や歩いて行ける範囲にアスパラ農家がポツンポツンと点在しているのだ。青空の広がる下、自転車を5分ほどこいでS家の「アスパラあります」の看板と木製の置物につられるように敷地内に入っていった。

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S家は4代続く古くからのアスパラ農家。入っていくと丁度50代くらいの女性が、だんなさんが車を売場のスタンドに近いところに停めたので「何でここに停めなきゃいけないの!危ないでしょ、もうちょっと考えてよ!」と叱り飛ばしているところだった。だんなさんは「気づかなかった。。。」と一言放ち、土のついたアスパラの入りの箱を急いで運ぶ。その脇では黙々とお姑さん(?)がアスパラの仕訳作業中。


世界中どこでもみられるような日常のシーンに笑ってしまいながら、ここではアスパラは買わず、今年初のドイツ産イチゴだけをゲットし、逃げるように畑にまた向かうだんなさんの車を追っていくことにした。

収穫作業を見せてもらう

車は途中で見失ってしまったが、広いアスパラ畑で収穫作業グループとみられる男性陣がいたので自転車を降りて近寄って行った。丁度採れたアスパラの目方を量って記録しているところ。その後、30代から40代と思しき日に焼けた4人組が収穫用の箱の上に腰掛けて休憩してながら会話を交わしていたので耳をそばだてる。が、何語なのかはまるで分からない。

ニュースによると、アスパラの収穫の主な担い手はポーランド人とルーマニア人というから、ルーマニア人ではないかと思う。

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一人が収穫用の釘抜きのようなナイフを砥石で研ぎ始め、そうする内にたばこ休憩を終えた彼らはよっこらしょと腰を上げて畝にたってアスパラを取り始めた。

見せてくださいと手振りでお願いするとおじさんはかがみながら土をよけてきゅっとナイフをつっこんで白いアスパラをシュシュシュッと引っ張り出してほいっと見せてくれる。出来た穴はコテで土を戻し、なだらかになるようにそっとひとなでする。

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出稼ぎ外国人労働者によって支えられる偏愛

この一連の手作業による収穫は白アスパラガスを特別な野菜にしているゆえんだ。アスパラの頭が土から出てしまうと光を浴びて変色してしまうし、折れないようにスピーディーにどんどん採っていかなければならない。約3カ月弱の間、彼らは毎日毎日ひたすらアスパラと向き合う。

誤解されないように書いておくが、決してアスパラ採りの外国人労働者が奴隷のように搾取されているわけではない。ただドイツ人が誰もやりたがらない作業だということ、そして賃金の安い国から人を集め、収穫コストを押さえることでドイツ人は存分にアスパラへの愛欲を貫くことができるというのは紛れもない事実だ。

果たして収穫している彼らはこの仕事をどう思っているのか聞いてみたくなる。

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もしかしたら「ドイツ人がアスパラ好きで、この仕事があって助かったよ」ーそんな答えが返ってくるのかもしれない。キャンピングカーなどに寝泊まりしながら得る収入は故国に戻れば恐らく決して悪くない実入りだろう。

シュヴェツィンゲンの畑の周りにはアスパラ御殿に違いないと思わせる立派な家が立っているが、ルーマニアにだって出稼ぎによるアスパラ御殿が建っているのかもしれない。

もちろんこうやって働き盛りの男性陣が故郷と家族からを離れて出稼ぎをしなければならない現実は重い。でも微々たる金額だろうが、アスパラによってお金持ち国のドイツからお金が他国に環流して、ドイツ人の偏愛が満たされるならば互いの利益が合致するウインウインの関係なのだと思うしかない。

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さらに500グラムを購入してアスパラスープに

ルイ14世から現代の出稼ぎ労働者問題まで、アスパラを通して見える世界は広い。私のアスパラ愛も少し変化した。というか、手で丁寧に一本ずつ地上に出されていく様子を見て「ドイツの春の恵みはアスパラ。つべこべ言わずに食べるんだよ」という域に達したのだ。無条件の愛ってヤツ?

自転車に再びまたがって近くのF家で細い、規格外のようなアスパラ500グラムとケーキ屋さんでアスパラの形をしたチョコレートを購入してからミュンヘンに戻った。

規格外アスパラで作ったのはスープ。茹でた後ミキサーにかけるので繊維も気にならない。私も少しアスパラから愛されはじめたのかもしれない。

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