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5本のシロツメクサ

堤  隆

 気がついてみると居間にいるはずの5歳の息子がいない。夕方の、ほんの10分ほどの出来事だった。今から10年以上前の6月半ばのことだ。
 家中のどこにもおらず、近所を捜した。駅やショッピングセンター、毎日車に乗って通う何㌔か先の保育園までいってみた。はたして幼い子の足でそこまでたどり着けるだろうか。
 71歳になる私の母親が入院する病院も捜した。その8カ月前、脳梗塞で倒れ、言葉と動作を失った母を、保育園帰りに見舞うことが日常となっていたからだ。疲弊のみが増すなか、夜のとばりが下りた。・・・・・・子供はみつからない。

 よくない事ばかりが、頭の中をよぎる。警察にもお願いして捜してもらうことにした。2時間が過ぎ、私の携帯が鳴った。ジョギングが日課という親切なご夫婦が、一人でいる小さな子を見かけて保護し、交番に預けてくださったという。救われた。私と妻は安堵というより、半ば放心状態で交番に駆けつけた。
 
 その心配をよそに、子供は少しほほ笑んでいる。何を思って家を出たのか、本当のところはわからない。ただその小さな手がずっと握りしめていたのは、5本のシロッメクサだった。誰にあげようと摘んだのだろうか。抱きしめるとわが子は、いつもと同じように小さく、温かく、甘い香りがして、私はただ泣けた。

 母が静かに息をひきとったのは、その翌朝のことだ。私の子供の無事を見届けるかのように、遠い世界へと旅立っていった。

 5本のシロツメクサは、色あせた押し花となって今も部屋のすみに飾られている。色あせたその花を見るたび、子どもの小さな旅と、母の別れとが胸に宿って、私は少し切ない気持ちになる。

    朝日新聞 連載コラム 「時計をはずして」 2008年2月6日 掲載
   
「押し花に旅と別れの記憶」(掲載時のタイトル)





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