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無常の日_NUM-AMI-DABUTZ


気付いたら祖父の命日から1週間も経っている。早い、早過ぎる。1週間の記憶がほぼないというか、そもそも1週間前のナンバガ解散ライブの追憶をする余裕も全くないままだった。

一緒にきてくれた先輩にまだメッセ返してない。
結婚パーティー呼んでくださいねー!という話をメッセした後に訃報を聞いてそのメッセ返ってきたのをまだ返してない。まあ、結婚パーティーは喪中期間かもしれないが忌中期間に当たることはまずないだろう。

会話の壁打ちに吹き込んだが、悲しむ余裕も亡くなったことを体感する余裕も、あの1週間にはあまりなかった。おそらく家族はそんなもんだと思う。

今日も1日起きられず、なんとか洗濯だけは干して、あとはやる気をなくして昼から酒飲んでまた寝る始末。
明日から社会復帰だけど在宅だからまたゆるゆると。Twitterで好きなものの情報は見てるけど、映像を見る気にならなくてワクチンの副作用の時のようなだるさ。もう全然そんな気力にならない。

人はいつか死ぬんだからじいさんが死んだことを受け入れていないわけじゃないし、よく95まで自宅で商いやってたことがまずすごい。
受け入れていないけど今まで気にもかけてこなかった昔の記憶が少しずつ蘇り「ああそんなことあったね」と思い出すたびにわずかながらダメージを受けていく。
例えば幼い頃駅に迎えにきてもらった後、必ずここでケーキを買って、ここで絵本とおもちゃを買ってもらった記憶、とか。そういう些細な記憶がなぜかつもりに積もるとしんどくてそれを吐き出したい。

正直にいうと通夜も神葬祭も2日間に分けてわざわざやるの本当にだるいと思って、通夜の日の夜ホテルで夫に「なんで1日で終わらせないんだ、めんどくせえ」と吐いた。もちろん通夜振る舞い的なものもなく、飯も親族だけでじいさんの家でバタバタと食べて終わり、だったから実は親族囲んでゆっくり話す時間はなかった。夫には申し訳なかった。
今振り返ると私自身ももっとゆっくり他の親族の人の話を聞きたかったし、聞いて欲しかった。コロナの情勢を鑑みるとなかなか難しいかもしれないのだけど。

ざっくり調べたところによると、50日祭は守護神としてじいさんの御霊を神棚に正式に向かい入れるにあたり、仏教における49日のそれより残された家族との食事会(直会というらしい)が重要になるみたい。なんでか、までは書いてないけど仏教(浄土真宗は別らしいが)場合49日で魂が極楽浄土に行くわけだけど、神道の場合家族の「守護神」になるわけだから、故人のことを思い語らいお迎えする準備としてそういったコミュニケーションを重要視してるのかな。
宗教学なんて1mmもやってないからよくわかんないけど。そこで話をすることがまた1つ気持ちの整理につながるのだろう。コロナを抜きにしても金掛かるし会食やる方はだるいから割愛したくなる昨今の情勢を理解するタイプだけど、「なるほどそういう理由があるのね」と当事者を経験して思い返す。

とりあえず正月に千葉には行くと思うのでそこで親父と夫とその時の話をするだろう。

家族が悲しみに暮れるのもまた穢れとされているみたいだが、忌中は忌中。せめて50日祭が終わるまで無理せず大人しくしていても誰も怒らないでよね、責めないでよね。現場には現れるけど元気なくてもそっとしておいてよね。
ここから受験本番のいとこはそんな余裕もないのがある意味羨ましい。

夕飯の支度をする。
今夜は静岡土産ね。

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