昼休みの20分で書いた

 アルバイトの昼休み。残りは20分ほど。この状況を利用して、何かを書いてみようと思う。
 さて、テーマは何にしようか。とりあえず一つ、引用をしてみよう。
 と思ったのだが、引用を探しに行っている時間はなかった。精確に言えば、よりよく引用しようとする時間はなかった。
 
 さっきしたことを振り返ることから始めよう。私はさっき「木村敏」とAmazonの検索窓に入れ、それを検索した。なぜか?それは木村敏のものを読みたいと思ったからである。私は木村敏の作品群がどのような配置になっているのかを知らないので、上から一つずつレビューを三つずつ見ていった。Twitterなどにオススメの本を聞いてみようかとも思ったが、私の欲求は漠然としすぎていたので、そうはしなかった。
 私は木村の用いる症例を、なんだか恐ろしいものとして受け取る。いや、なんというか、ドゥルーズも言っていたと思うが、おそらく本当は病的ではない私が病的であるかのように感じられ、そのように感じることへの後ろめたさがあり、そしてそれと同時に実際にその症例を生きている人がいることに恐ろしさを感じるのである。私はだから、面白いとは思いつつ、連続でガリガリとたくさん読む気にはなれないのである。
 このような感覚はあの感覚に似ている。文学を読む感覚である。私は文学があまり読めない。特に私小説と呼ばれるようなもの、純文学と呼ばれるようなものが読めない。それは、疲れてしまうからである。展開がないことに疲れてしまうからである。しかし、展開がなくて疲れるというのは展開が欲しいということではない。綿密に迫ってくる、人間の感情のようなもの、それに疲れるのである。
 それに比べて、絵画を見るというのは、ある程度疲れないし、それでいてある程度病的(?)になれる。最近見たもので言えば、私はミロの絵を見た。すると世界は、おそらくミロが見ているようなものとして現れた。ありありと目の前に、現れた。それはたしかに文学者のものに似ているが、少し違う。いや、私にとってはだいぶ違う。私は絵を平面として見ている。だから、そこには気分が乗らない。乗るとすれば私の気分である。しかし、文学者は気分の方を乗せる。それは平面ではない。そもそも面ですらないと言えよう。
 最近私は眩暈のようなものをよく感じる。ような気がする。なぜか。おそらく原因はわかっているが、それはもはや解決不可能なことである。面がゆらゆら、地面がゆらりゆらりしている。そういう経験、それを遊ぶ経験を昔、と言っても三年前くらいにした。養命反転地という場所で。あそこで私はメルロ=ポンティの言っていることや「体勢」ということの、その深い意味を理解したような気がする。

 さて、とめどなく話してしまったが、まとまった話であったことにしよう。まとめてみよう。おそらくテーマは受容である。文学者や画家の表現からそれぞれの受容を知り、それに取り憑かれる。それは快楽の源泉ではあるのだが、やはり疲れる。皆さんがどうかは知らないが「やはり」疲れるのである。その疲れは身体的なものだが、木村敏の症例はそういうものではない。もっと全体的なものである。画家に比べて文学者がそうであるように全体的なのである。しかし、症例だけは快楽の源泉にならない。それはなぜか。やはり現実に病的に生きている人がいるからだろう。しかし、これは良い表現ではない。なぜなら、文学者や画家も、そして普通の人と言われるような人もきっと病的に生きているからである。
 まとまらなかった。まとまらなかった。しかし、あるスペクトルとその境界線を探すことはできた。今はまだ境界線が混ざっていてよくわからないが、おそらくいつか、そしておそらく近々わかるのだと思う。

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