倫理と「行為する」と「振る舞う」

 「行為する」と「振る舞う」はどういう関係にあるのだろうか。
 私はどうしても「倫理的に行為する」ということがわからない。わからないというよりも感覚的に承認できない。なんというか、倫理と行為が重なる地点が見えない。もちろん、何かを言おうとしていることはそこから読み取れるのだが、何かを言っているようには思われない。
 一方で「倫理的に振る舞う」というのはよくわかる。倫理と振る舞うということはよく適合する。感覚的にもよくわかる。しかし、「倫理的に振る舞う」と言うと「真剣じゃない」と感じられる。しかし、倫理というのはそもそも真剣なのか、という問いの立て方は間違っている。そもそも、倫理は振る舞うことなのである。というのも間違っている。しかし、感覚的に適合するのは「倫理的に行為する」よりも「倫理的に振る舞う」ということである。
 では、この二つから「倫理的に」ということを一旦省くとどのように考えられるだろうか。つまり、「行為する」と「振る舞う」の違いはいかに見出されるだろうか。
 そのように考えると、常識的な答えとしては「主体性」、もしくは「意志」や「計画」がそこに含まれている度合いが違うということが挙げられると思われる。つまり、「行為する」というのは主体的で意志があり、計画を伴うということである。反対に「振る舞う」は主体的ではないし、意志的でもないように見えるし、計画性があるとしてもそれは人を騙すような志向性があるような形になってしまう。
 このように考えると、「倫理」を私がどのように考えているかが一定程度推測されるのではないだろうか。私は主体的で意志的で計画的な「行為する」は「倫理」に適合しないと考えている。つまり、「倫理」というものを非-主体的で非-意志的で非-計画的なものとして考えているから、「倫理的に振る舞う」ということが適切であると考えていると考えられるのである。
 では、私は「振る舞う」ということにどのような力を見ているのだろうか。
 簡単に言えばその答えは「要請と応答の関係を見る」という力を見ているということになるだろうと思う。その中でも特に重要なのは「要請」という考え方である。言い換えれば、「要請」が「行為する」では歪められている。
 たとえば、「要請」ということで私たちはどのようなことを考えるだろう。最近なら、時短要請とかが浮かぶのだろうか。しかし、あれは私の考える「要請」ではない。私の「要請」は「聞き取ってしまう要請」である。
 たとえば、目の前に泣き出しそうな子どもがいる。親御さんと逸れてしまったのだろう。私はそこに「安心させろ」という「要請」を聞く。聞いてしまう。私が仮に急いでいてもそこに「要請」を聞いてしまったら「応答」が自動的に要求される。もちろん、その求められた「応答」を断るという自由は存在する。ヴァレリーの言うように。だが、「倫理的に振る舞う」というのは「要請」を聞き取ったらそれを断らずそれに「応答」することを指すと私は考える。
 こう考えれば、「行為する」では具体性が段違いになくなってしまうと考えられる。上のような話をすれば、「弱き者には優しく振る舞うべきである」と判断して「行為する」ことが「倫理的に行為する」ことであると考えられるからそのように行為することが良いことであると考えられるのだろうか。私の「倫理」はそうではない。「要請」を聞き取ってしまったなら「応答」するしかなくなるのが「倫理」である。その「要請」を聞き取る力をつけることが「倫理的である」ということの恒常的な行為である。そのように判断することだけが「倫理的に行為する」と重なるところである。それ以外はまるで重ならない。
 ここまでをまとめれば、このようにまとめられると私は思う。
 「倫理的に行為する」というのはまず規範が立てられていて、その規範をもとに状況を判断し、規範に適合するか判断し、その二つの判断をもとに行為したことが仮に最初の規範に示されていることから必然的に導き出される場合に「倫理的に善いことをした」ということになると考えられる。
 しかし、私が「倫理的に善いことをした」と考えるのは「要請」を聞き「応答」したということであり、「要請」を聞いたのに「応答」しなかったわけではなかったというのが「倫理的に善いことをした」ということである。私が見出す唯一の規範はそのようなことでありその具体的な現れはそれぞれの現れに依存している。
 このように私が考えるのは、人間は弱いということ、あらかじめ打ち立てた規範を適用することは倫理的に生きることに寄与しないと考えるからである。私たちは「要請」を聞き取らないという態度を取れるし、「要請」を聞き取ったとしても「応答」しないこともできる。けれど、「要請」を聞き取り「応答」する。そこに限りない倫理性を感じるのである。「倫理的に行為する」ということには「要請」がない。もしあるとしてもその「要請」は具体的ではない。なぜならその「要請」は規範から、それもあらかじめ打ち立てられた規範からの「要請」でしかないからである。
 もちろん、そのような規範からの「要請」も「要請」である限りは倫理的であると思う。たまにそのような規範を「またあらかじめ打ち立てられる」と考えつつも打ち立てておくことに価値はあるとも考えられる。しかし、それはそれでしか意味がない。しかも、それは難しい。だから私はそれよりも「要請」を聞き「応答」する。という単純な規範の「要請」だけは必ず聞き取り「応答」しようとすることに価値を感じるのである。

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