1-2-3 対話とコーラ(受容者)

僕は前回、フーコーのエピステーメーという概念を引いてくることによって、対話の行われる「場」について考察してきました。
そして、フーコーのエピステーメーのうちでも、古典主義時代のエピステーメー、つまり、表象の整合性という志向を持った思考の場として、対話の場を捉えることが、アナロジーと解体の対話の場としては最善だということを論証してきたつもりです。
その理由は、僕の中のアナロジーと僕の中の解体とが対話する場だからです。
少し前のように、僕の思想と他人(バフチンやバルト)の思想の対話の場であれば、おそらく近代のエピステーメーのような対話の場が想定されるべきだったかもしれません。
このように、僕は対話の場の選択とその選択肢の可能性について、考察を続けてきたわけですが、デリダの「場」の哲学は、それとは一線を画すものとなっています。
まずは、『デリダ』(講談社学術文庫)から、コーラ(受容者)という概念を引いてきましょう。


イデアとそれをモデルとする事物の模写そのものが、両者のすべてを受け入れるある根源的な「受容者」なしには成立せず、この「受容者」こそ「コーラ」(場所)にほかならない。
<中略>
「プラトニズムのあらゆる二項対立」のプラトン自身による脱構築、対立項のいずれでもないが、両者を包摂し、両者の関係をそのなかで可能にする中間地帯、第三のもの

彼は、第三のものとして、プラトニズムの二項対立の成立を可能にするような中間地帯として、コーラ(受容者)の概念を提示しました。
この「コーラ」というのは、もともとギリシャ語の言葉で、「場所」という意味がありました。場所と言っても、抽象的な場所ではなく、具体的に物が置かれるような場所としての場所という意味を持つ言葉です。
彼が、この概念を引いてきた理由は、脱構築の場として場の定義をするため、また他者の招来という「出来事」を可能にするためだと思われます。
彼は、これまで父子の関係として捉えられてきた、イデアとその模写物としての現象や表象に欠けている、母的な要素について語ることを必要だと考えた上で、この概念を提唱しました。

では、コーラとエピステーメーはどのような関係にあるのでしょうか。
僕の答えは、コーラがエピステーメーを包含しているというものです。エピステーメーというのは、コーラの分析において、フーコーの創造した概念であり、その概念さえも抱え込むような大きな概念がコーラだと思っています。
だからと言って、デリダがフーコーよりも優れているということを言いたいわけではなく、フーコーはデリダと半ば協働して、その第三者的な領域を考察したということを言いたいのです。
彼らは、言語的な領域におけるコーラやエピステーメーを考察しましたが、僕はここでもう少し領域を狭くして、対話という領域におけるそれらについての可能性を考察します。

コーラやエピステーメーの性質としてあげられるのは、受容性でしょう。
エピステーメーはコーラよりも厳しい受容をしており、ときにその領域内に制限をかけてしまいます。しかしそれは創造性を喚起することでもあり、一概に悪いとは言えないものです。
では、この対話におけるコーラの可能性はどのように定義できるでしょうか。
デリダの言うように、コーラというのは定義しにくく、もしかすると定義不可能なものです。
たしかに、無限の受容性を持つコーラという概念は、表に現れでる可能性がありません。しかしそれは、言葉と物が分裂した古典主義時代以降の話です。
言葉と物が分裂していないような類似の世界においては、無限の受容性を持つコーラさえも類似の対象となり「コーラ」として「場」を創造します。
その場においては、言葉と物が癒着しながら、その内なるダイナミズムの関係における表象の世界が現れ、その表象の関係性による力はまた癒着したダイナミズムへと還帰することが可能になります。
つまり、僕の中のアナロジーと僕の中の解体において、僕は「コーラ」なのです。
僕という署名において彼らは同一平面に表象の世界として構成され、僕という行為において彼らは言葉と物が統合され、僕という現象において力能的なダイナミズムは働きます。
この対話でのコーラはすべてのエピステーメーを選択できるようなコーラとなり得ます。
それは僕自身がコーラとなる可能性があるからです。
エピステーメーにおける考察で、僕はあたかもエピステーメーを選択できるような態度を取っていましたが、それはこの対話の特異性(僕の中のアナロジーと僕の中の解体の対話という特異性)がそうさせるのです。

しかしながら、僕がコーラとなるというのはどういうことなのでしょうか。
次回はそのことについて考察していきましょう。


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