現実主義者ってなんでしょう

現実主義者、っているじゃないですか。
あれって、なんなんでしょうか。
たまに「私、現実主義者だから。」っていう人、いるじゃないですか。
あれって、なんなんでしょうか。
そもそも、「現実」と対義されているのは、どのようなことなのでしょうか。
嘘、妄想、その他もろもろ。とにかく、「現実」と対比できそうなものならなんでもいいような気がします。
現実主義者だという人に私は興味が湧きません。
なぜなら、私は現実主義者ではないからです。
しかし、私も空想の世界に生きているわけではありませんから、現実に生きています。
しかし、現実主義者ではないと思っています。
この「思っている」ということが現実主義者は嫌いなのでしょうか。なんとなくそのような気がします。
彼らは「考える」ということが好きで、現実なるものを明晰に理解することを信条にしているような気がします。
私はその気持ちがよくわかりません。
わからないからといって嫌いでもないのですが、ただ不思議に思います。
「現実主義者」と名乗ることに一体どのような動機があるのでしょうか。
そもそも「主義者」と名乗るのは「やむにやまれず」という場合と「そうするしかない」という場合とがあるでしょう。
「やむにやまれず」というのは「どう考えても」と一緒で、なんとなくそうとしか言えないような気がする、というような種類の「主義者」です。それに対して「そうするしかない」というのは「考えると」ということで踏み込みが少し甘いけれども力強い種類の「主義者」です。
まあ、どちらも自意識過剰なのですが、私もそうなので、そこで議論する気はありません。仕方がないことだと思います。
なので、やはり、「現実」というものをわかっているという態度を取ることの意味について考えなければならないのではないでしょうか。
まあ、「主義者」はとりあえず、言葉の弾みでついたものだということにしておきましょう。
彼らはそんなに「主義者」について考えていないでしょう。決めつけてしまって申し訳ないですが。考え直しましょう。
ということで「現実」ということを殊更に言うというのはどのような意味を持つのでしょう。
私は「妄想」を退けたいとか、自らが「現実」だと認識できているものを「現実」と認識し直したいとか、そういうことなのだと思います。
「妄想」を退けたいというのは、何か一つの軸を己の中に自分しか知らない方法で打ち立てたくないということでしょう。
もちろん他人に迷惑をかける妄想はやめてほしいですが、人は皆、妄想するものです。
そのことをなんとなく嫌っていて、「現実」という対義語的なものに忠実である自分を演じているのです。
もう一つの「現実」を再認識したいというのは、彼らの「現実」の範囲は非常に狭く、それ以外はいわば揺れていて、何も決まっていないわけではないが、決まっているわけでもないような、「あいまいさ」の領域が多いでしょう。
真に「現実主義者」というためには非常に狭いところを「現実」として認めるか、この生の全体を「現実」として認めるか、という両極に引き裂かれる必要がありますが、後者を知る人は少ないでしょう。
なぜなら、後者である場合に「現実主義者である」という言明はトートロジーだからです。
「世界は世界である」といっているのと同じことをそこでは言っていることになるような構造がありますから、それは言いません。
ということはやはり、おそらくですが、「現実」は非常に狭い領域を述べることになるでしょう。
彼らは実証ということが非常に好みですが、それは万人がデータで納得するからです。
ということで、「現実主義者」の「現実」は非常に狭い。だから、その外側を「現実」として認識する共同体的なものが欲しいのです。
そのために「主義者」をつけているのでしょう。
彼らは本当は「現実」なるものは存在せず、それすらも「妄想」であると考えるのが苦痛で仕方がないのです。
私には正直その考えはよくわかりませんが、彼らはそのように思っているでしょう。

私には想像力が欠けているので、この文章に対する批判がどのように展開されるかまったくわかりません。
けれど、私も同じように「現実主義者である」とわざわざ言明する人間のことがわかりません。
と、こんなこと言うと、「お前も現実主義者がわからない」ということを言明しているではないか、その意味がわからない、と言われそうなので、この文章の意味、私が考える意味を最後につけて、今日はひとまずお開きにしましょう。
論争はまたこんど。

この文章の意味は「妄想」の領域を守り、「妄想」を愛するものが「現実」なるものに傷つけられないようにしたいという私の意志の表現です。
特に「現実主義者」の「現実」が部分と全体とに極限的に引き伸ばされているということがわかれば、「妄想」は全体が次々に部分となるという伸縮性を持つが故にその「現実」なるものの変革に一つの軸をもたらすことができるという意義が生まれると信じたからこそ私はこの文章を書きました。
「現実主義者」の方には勝手に登場願い、申し訳ありませんでした。
また、「嘘」のルートを忘れていて申し訳ありません。
「嘘」と対比される「現実/妄想」と対比される「現実」とでは、ひねりがありますから。ねじれかな。そんなものがありますから。

私は「現実主義者」が嫌いなわけではなく、よくわからないのです。
これは本音です。
では、思索と詩作の彼方で出来事としてまた出会いましょう。

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