先週の私に対する今週の私の考察②

 さて、今日も「先週の私に対する今週の私の考察」というテーマで文章を書こう。この文章は私の書いている「日記」を対象とした考察として書かれている。その「日記」は私の「文学」というマガジンに入っている。形式だけ確認しておくと、そこでは私が考えたこと感じたこと、そしてたまに詩歌など、それらがほとんど編集されず、ただ書かれた順番に並んでいる。詳細は読んでもらえればわかるが、ここで紹介しておけば、次のように文章が並んでいる。先週の月曜日から引用しよう。

私はあまり「哲学」的な闘いに興味がない。それが密かなものだろうと奇妙なものだろうと、別に何を冠されていなくても興味がない。興味がないというのは言い過ぎた。

そう、私はあの、置き換えられているだけだという、ウィトゲンシュタインの見方を採用することに、なんら抵抗や特段の洞察を感じない。それはぴたりとくっつくためのものであり、それ以外ではないように思われるのである。

私は「テクストの見えない層に密着してそのポテンシャルを引き出す」(『ジャック・デリダ「差延」を読む』136頁)ことを目指しているわけではない。

 この三つは同じ日からの中略なしの引用である。もちろん、いくつもある連続した文章の中からある程度離れがあるものを選んだが、これよりも離れていることはよくある。とにかく、こういう形で考えたこと(?)を書いている。そして、この文章はこのように書かれた「日記」を考察するものなのである。
 ちなみにタイトルが「先週の私に対する今週の私の考察②」となっているが、「先週の私に対する今週の私の考察①」を先ほど推敲して投稿した。それが面白かったので第二弾としてこれを書いているのである。
 その文章の最後、このようなことが書かれている。

さて、ここに書いたものの他にも結構面白い構想や考察もあったが、それに触れていると、それこそこの文章も「輪唱」化してしまうので、今日はここでおしまいにしよう。楽しかったのでまたやろうと思う。

先週の私に対する今週の私の考察①

 ここでの「輪唱」についてはその文章を読んでもらうのが良いが、簡単に言えば、話題が散らかってしまう(別に散らかってもいいがこの時は次の予定があって書けなかったのである)こと、そしてそれが徐々に混ざり合ってゆくということが「輪唱」で言われている。つまり、「先週の私に対する今週の私の考察①」は話として展開したいことがあったが、それを一つに絞ることができないし、それを一つに絞ったり絞らずに書き始めたり、そういうことをする時間がなかったから仕方なく終わったということである。
 ちなみに先週の「日記」はまだ月曜日から火曜日までしか読んでいない。それでも1万字くらいあって、残りの約2万字は残されている。ただ、「先週の私に対する今週の私の考察①」の意志を引き継いで書いてみようと思う。幸い、私は「ここを引用したいなあ」ということをしっかりメモしているのでそれに従って考え始めよう。
 次のような文章が「ここを引用したいなあ」ということにされている。

他者=複数性を他人に委任しすぎることが問題なのである。私にとっては。私が他者=複数化することを求める、私にとっては。求める?

2024/1/8「自然治癒力の衰えとしての哲学」

 私の文章はなんというか、よくわからないリズムで書かれているときがある。たまに。おそらくたまに。ここでもそのリズムが、おそらく比較的わかりやすいとは思われるが出ている。なのでそれをわかりやすく整序することから始めよう。
 ここでは「私にとっては。」ということが二回繰り返されている。これはおそらく複数の解釈があり得るが、とりあえず私が最も妥当だと思うものを提示してみよう。
 最初の「私にとっては。」は先週の私が「他者」の問題においてその問題の根幹、言うなれば問題性を「他者=複数性」という問題系に接続した上で「他人に委任」するという応答のある種の過剰に見ているということの表現であると思われる。そしておそらく、そのように見ている人はあまりいないか知らないか、とにかく新しく踏み出していることを自覚していることの表現でもあると思われる。ここで深く考察することはしないが、このような問題設定自体はおそらくアーレント的なそれであると思われる。つまり、私はおそらくアーレントへの批判としてこれを打ち出そうとしていると思われる。
 もう一つの「私にとっては。」というのは複雑な話になるのだが、ここで先週の私は「他者=複数化」という問題をそのような批判意識の中で考えている。しかし、その問題はなんらかの「他者」が私にそのように求めているという構成で作られることが多いことにも私の問題意識は向いている。しかし、そのような構成もまた「他者=複数化」の一つの現れであると考えられるのではないか、とここで私は言っているわけである。そして、それが「私が他者=複数化することを求める」と表現されている。ここで目指されていることがあるとするならば、それは「他者」が「私」に「他者=複数化することを求める」のではなく「私」が「私」に「他者=複数化することを求める」という形で問題を構成するということである。しかし、最後に先週の私は書いている。「求める?」と。
 これは何を意味するか。それはおそらく、ここでの問われて応えるという、要請-応答の図式そのものを問うことができるということである。つまり、「他者」から「私」への要請元の転換よりも「要請」を考えることがここでは重要なのではないか、ということが言われているのである。これはある意味、二番目の「私にとっては。」の「私」に対して、「お前が考えていることは本当にそういうことなのか?」と問うていることになる。しかし、これに応えることはおそらく、またその要請-応答の図式にはまることである。だから、それは虚空に消えているわけである。
 ここまでの話はかなり複雑である。なので、とりあえず、ここまでの書き方に違和感を持つだろう人に、ある種の言い訳をしておこう。その違和感とは、次のように表現される違和感である。「どうしてたった一週間前の自分の文章なのにそんなに他人行儀に読み解いているのか?」
 簡潔に答えよう。「一週間前の自分」は「他人」だからである。もちろん、「読み解く」ことをしようとする場合に「他人行儀」になる必要があるからそうしている部分もあるにはある。しかし、私にとってはむしろ「他人行儀」であることが普通なのである。もちろん、私が誰よりも「先週の私」の背景に対する理解が深いのはその通りであろう。しかし、それはそれであり、これはまた別の話である。まったく関係ないと言うのは困難であるにしても。
 例えば、私は先週の私がこのように言った背景にアーレントの他にレヴィナスの「単独性」やデリダの「差延」、さらにはドゥルーズの「法、ユーモア、アイロニー」があることを知っている。それは単純に言えば、この時私がそれを読んでいて、それをここには書いていないからである。ここでの「ここ」にはこの文章だけでなく「日記」も含まれる。つまり、このことを知るのはこの私だけである。しかし、そのことと「先週の私」が「他人」であると感じられるか否か、は別の問題である。いわゆる他人、例えば「日記」を読んでいる私以外の人がもしこれらの背景を知っていたとしても、「先週の私」を「他人」であると感じられる場合もあるだろうし、これを知らなくても「先週の私」を「他人」ではないと、言うなれば同じようなことを考えていると感じられる場合もある。つまり、私は「先週の私」に対して「他人行儀」にしているのではなく端的に「他人」だと思っているのであり、それは時間的な遠近に無関係ではないにしてもそれほど関係はないのである。だから、こんなふうに書いている。こうやって書くしかないのである。私は。
 さて、話を戻して、としようとしたが、ここまでの注釈がもうすでに一種の展望になっている。しかし、その展望はかなり豊かな展開を含んでいるように思われるのでやはり、結局「輪唱」に行きついてしまう。このことを仕方のないことであると考えるとすれば、一つ前の考察の終わりが上のようになっていたのもまた、時間のなさだけがその原因ではないことになる。その奥底にはもっと、もっと本質的な要因があったことになる。
 ただ、私はもう少し踏み込んでみたいと思う。沼のようにぬちゃぬちゃしていそうだ。私から見える展望はそう告げている。しかし、私は緩んだ足場、そこで一つの実感を得て、また具体性を補充できるように思われる。さらに言えば、多様にじたばたするその姿はおそらく、何かを、何かを呼び込むように思われる。その何かが何か、それはよくわからないし、もうすでにその萌芽はここまでにあるだろう。しかし、それをもう少し掴んでおきたいのである。

 このように書いた後、ある問題があった。それゆえに忘れてしまった。なので、まずは推敲を兼ねてここまでを読み直してから書いてみたい。
 
 読み直した。推敲した。しかし、それゆえに私は掴み損ねた。しかも、逃げ去る感覚すらない。私の手の中には何もない。なぜ?
 それに答えてあげよう。

 君の手の中に何もないのは、君が何かを掴もうとこれを書き始めたからである。これは二重に言われうることである。一つはそもそも書き始めなければ書き終わりはないという、極めて一般的なことである。もう一つは君が最後に「先週の私」の言ったことに合わせて書いたからである。前者も面白いが、ここでの書けなさに特有の理由を考えるなら後者について考える必要がある。君はきっと、次の文章を参照して「私は緩んだ足場、そこで一つの実感を得て、また具体性を補充できるように思われる」というところを書いたはずだ。

理解形式にだけ沿って議論を展開する。具体性は後から付与される。そこにあるのは抽象性だけである。しかし、穴ぼこはおそらく具体性から生まれる。それゆえに想起されるのだ。具体性は私以外には想起されるのだ。

2024/1/8「自然治癒力の衰えとしての哲学」

 これもまた複雑であり、何か文脈を掴めばわかるようなものではない。が、とりあえずある程度ポイントは掴んでおこう。ここでのポイントは「具体性は後から付与される。」というところである。
 
 まあ、その見立ては間違っていない。しかし、君がしているのは私が上で言った「背景」を見ることである。君は私のもう少し深い「背景」について言及しているだけである。

 まあまあ、落ち着けよ。ここからが重要なんだから。急ぐな。そんなに。
 ここでは「具体性は後から付与される」と言われている。しかし、君はここで「具体性を補充できる」と言った。この二つのことは同じことだろうか?

 いや、同じことではないだろう。

 そうだろう?だからその話をすればいい。

 たしかにそうだ。しかし、君が入り込んできたんじゃないか。君が、待てなかっただけだろう?

 本当にそう思っているのかい?

 思っていない。私は気がついていなかった。ここで二つのことが別のことであると。そう。私は聞き飽きたことを、もちろん私にとっての聞き飽きたことを言いかけて、それに抗っていたら、もはや書くことがなくなったのである。そう。君の言う通りだ。

 君は偉いね。恨み言を言わなくて。さて、この違いについて考えようじゃないか。「具体性」が「付与される」のと「補充できる」のは何が違うか。

 まず二つの違いがあるだろうね。一つは「される」と「できる」、もう一つは「付与」と「補充」。だから、まずは、いや、最初にすることじゃないかもしれないが、これを入れ替えてみよう。つまり、

 ちょっと待ってくれ。それに加えてもう一つ、「は」と「を」の違いもあるだろう。

 たしかにそうだ。じゃあ、全部で八通りあるわけか。そこから二つ、「先週の私」は「具体性は付与される」を選び、「今週の私」は「具体性を補充できる」を選んだわけだ。

 そうだ。しかし、君も薄々気がついていると思うが、この二つの違いはおそらく、

 いや、その前に「が付与」と「を補充」はくっつけて入れ替えてみよう。つまり、「具体性が付与できる」と「具体性を補充される」の二つがどのように考えられるかを考えてみよう。

 さて、二人に分かれるのも疲れたので、いや、なんというか、読む方がゆらゆらしすぎて疲れると思うので一人の体(てい)で書いていこう。問いは越境する。問いは連続している。おそらくこの問いにとってヒントになるのは上に引用されたものに続いて書かれたものである。

言い換えれば、人間のレトリーク(議論の流れも含めた広義のレトリーク)には典型があるから、それを活用して思いついていないけど書くという、そういうことをしたいと思うのだ。

2024/1/8「自然治癒力の衰えとしての哲学」

 現在の論脈に位置づけるとすれば、これは「具体性」がどのように現れるか、に関する記述である。そして、「具体性」が「後」から生まれることに関する記述である。
 とりあえず、とても単純なモデルで考えてみよう。ここで言われている「人間のレトリーク」をA-BとC-Dという対比と(A-B)-(C-D)という対比すなわち類比であると考えよう。すると、最も単純に言えばA、B、C、Dのうちの三つが埋まっていれば残った一つは埋まると考えられる。なお、ここでは「最も単純に言えば」こうなるということを考えているので、もちろんこの「埋まる」は「埋まりうる」という可能性の領域も大いに開くし、むしろそれのほうが本題であるようにも思えるが、とりあえずは置いておこう。
 ここでの「埋まる」が「具体性」が「後」から「付与」なり「補充」なりが「される」ことである。ちなみに「できる」は上で言うところの可能性の領域の話である。が、今回は置いておく。
 では、「付与」と「補充」は何が違うのだろうか。それはおそらく、「埋まる」ということを「埋める」ということであると考えるとき、その「埋める」を行う存在には二つの仕方があるということであると考えられる。端的に言えば、「他者」がするか、「私」がするか、の違いがここにはあるように思われる。つまり、「他者」がすることを強調するときには「付与」が使われ、「私」がすることを強調するときには「補充」が使われるわけである。
 しかし、ここでもう一つ重要なのは、ここでの「付与/補充」と「他者/私」の類比は「埋まる」を「埋める」というふうに考えるときにそうなるということである。そしておそらく、「付与される」と「補充できる」なのは私の根本的な態度に関する表現である。なぜなら、ここでは一種の揺り戻しが起こっているからである。しかし、私にはそれが何であるか、明晰に語ることができない。かなり複雑なことがここに表現されているように思われる。いや、むしろすごく単純なことがここで表現されようとしているように思われる。

 さて、このままやってもずっとこの調子で語っているだろう。が、とりあえず一つ、終わりを作っておきたい。
 私は、「先週の私」はこのように書いていた。

最近の結構大きな気づきとして私が「哲学」と呼んでいたものをみんなは「美学」と呼んでいるのではないかという気づきがある。

2024/1/8「自然治癒力の衰えとしての哲学」

 ここまでの話もおそらく、一つの「美学」に収斂するだろう。その収斂がより濃密で、より誘惑的で、より賦活するものであることを願おう。とりあえず。

 推敲した。そして一つ、収斂の豊かさを願うきっかけを見つけた。私がこの議論の中ごろで引用したものをもう一度引用しよう。

理解形式にだけ沿って議論を展開する。具体性は後から付与される。そこにあるのは抽象性だけである。しかし、穴ぼこはおそらく具体性から生まれる。それゆえに想起されるのだ。具体性は私以外には想起されるのだ。

2024/1/8「自然治癒力の衰えとしての哲学」

 ここまでの議論で取り上げられたのは「具体性は後から付与される。」というところである。ところで、そのあとの三つの文は何を意味しているのだろうか。ここでは終わるために三文目だけを取り上げよう。私の根本的な態度はむしろ一、二文目に表現されていると思うが。
 三文目に従えば、「埋める」というのは「私以外」には「想起」によってなされるらしい。ここで注意するべきことは「私以外」と言われている時の「私」はこの時の私、つまり「先週の私」、いや、「先週の月曜日の私」、いや、これを書いた時の私であるということである。つまり、「今週の私」やあなたたちも「想起」によってしか「具体性」を確保できないのである。では、これを書いた時の私はどうなのであろうか?それはわからない。
 ここで思い出しておきたいのは私が中盤で書けなくなった理由を「私は聞き飽きたことを、もちろん私にとっての聞き飽きたことを言いかけて、それに抗っていたら、もはや書くことがなくなったのである。」ということに見ていたことである。ここでは「想起」に対抗する術がなかったのである。だから、ここまでの議論はある意味で要領を得ていない。なぜなら、ここをこそ考察するべきだったからである。そう、簡単に言えば、私は「具体性」を「付与」とか「補充」とか、そういうことに惑わされて、本題を見逃していたのである。

 しかし、と言おうとしたが、もう終わるんだったな。疲れたし、踊って疲れたし、終わろうか。

 そうだな。

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