『人格の哲学』と「私とX」

 われわれは「人格」をもっぱら自由で自立する主体、他の何ものによっても置きかえることのできない唯一・独自の「個」としてのみ考えがちで、この自己支配的な主体は根元的に他者との交わりにおいて存在し、交わりにおいて自己を実現し、完成するような存在であることを見落とすか、それは何か副次的なことと考えがちである。そして、このような「人格」の本質についての致命的な誤りからわれわれを救ってくれるのが、人格は人格として共通善を自らの目的として追求する、という真理、つまり人格と共通善の本質的な結びつきなのである。
『人格の哲学』262-263頁

 かなり長い時間をかけて、私は『人格の哲学』を読んだ。初めから、本当に最後の方までよくわからなかった。しかし、最後の章はなんとなく、悲哀を感じつつ、その力強さを感じられるくらいには、この本の中の場に参加できたような気がする。この本は基本的に神学の本である。私は神学なんて全然知らないから、「わかんねえよお」って思いながらも、なんとなく面白そうな予感がずっとあって、たまにそれが沸騰して、というか、触発、強く触発して、強引で熱情的で、それでいて優しくて、冷たくて、強くて、広くて、伸びてゆくような自然があるような、そんな場が生まれていたような気がする。
 正直に言えば、私は全くの見当違いの答えを出したように思う。「人格は人格として共通善を自らの目的として追求する」というのはわかったようでわからない。とかではなく、全然わからない。でも、なんというか、辛くても、しんどくても、それでも力をくれるような力性は感じた。ただ感じただけである。
 私は自分の考えで言えば「私」というものを考えるのをやめて「私と私を引き出した何か」として「私」を考えること、私なりの言い方で言えば「私とX」という考え、それが『人格の哲学』に最も強く触発される考え、そして運が良ければ触発する考えであるように思えた。

「自存する関係」=「交わり・即・存在」と言いかえることもできよう。なぜなら、「自存する関係」における「関係」は御父と御子、御父および御子と聖霊との間の「交わり」を指すと解することができるからである。
『人格の哲学』186頁 自著

 これは私がこのページを読んで考えたことというか、まとめたことというか、そういうものである。最後の章は「人格の神学的考察」という題が付けられているのであるが、この章は神のペルソナが「自(ら)存(在)する関係」であるというトマス・アクィナスの考えはどのようなものなのかを明らかにしようとするものである。
 
 もう、なんというか、何を書けば良いのかがよくわからなくなってきているが、私が感動したのは本当であるし、力を感じたのも本当である。でも、うまく言葉にならないし、表現にならない。この「でも、」の間に私はこの本を読んだ。いまもまだ「でも、」の中にある。しかし、この「でも、」は「私と『人格の哲学』」という「私」である。力。そこには圧倒的な力がある。自分を強ばらせていた何か、殻のようなものがべきべきと剥がれていくような、そんな気がする。それも、自然に剥がれていくように、強引に剥がれていくように、そんな二面性の快楽を持ちながら。正しい時に正しい力で殻が破られた。その快楽性は底知れない。
 神学は透徹してしまうから、なんというか、文章を書くことが野暮に思えてしまう。もちろん、稲垣が『人格の哲学』を書いてくれたから、私は新しい存在論へのビジョンが極めて微かに、しかし、そして、濃密に見えた。でも、私はこうやって書けない。神学を哲学にするような信仰への透徹がない。トマスの「自(ら)存(在)する関係」について稲垣は以下のように述べる。

 唯一なる神にたいする信仰を堅持しながら、聖書が御父、御子、聖霊を明確に区別しつつ、等しく神として語っていることをどう理解したらよいのか。前にも述べたように、全面的に聖書の教えにもとづいて神の認識をどこまでも認識しようとするトマスは、聖書が語る御父なる神、御子なる神、聖霊なる神という区別は、人間理性が固有のちからで到達することの可能な神の「一性」の認識とはけっして矛盾するものではない、と考えた。それはむしろより親密に神の内的生命へとわれわれを招き入れ、神が一であることの意味をより深く、より豊かに悟らせてくれる教えであるというのが彼の一貫した立場だったのである。
『人格の哲学』197頁

 これこそ、これこそが力である。私はそう思える。私は「唯一なる神にたいする信仰」は持っていないが、それはなんとなくわかる。そしてその力もなんとなくわかる。そんな感じなのである。もちろん、「言っていることはわかる」のだ。聞こえるのだ。私の肩を持ち、揺さぶることも厭わずに、私に話しかける透徹が、見えるのだ。聞こえるのだ。その声が聞こえるのだ。私はそれに打ちひしがれる。表現力のなさに、そして、それを愛する懐のなさに。表現力は懐である。力である。それがあれば、受容できる。「私とX」というのはその力を、その強さを信じようということなのである。成長するということ、それが変化であると知りながら、それでも強くなることでもあると考えられるようになること。それが「私とX」ということ、「触発力を信じる」ということである。
 「触発されること」を極めようとする私は、このように打ちひしがれることで、また広がる。冒頭の一文で締めよう。私はもはやここで終わっていたような気がしないわけではないのである。

 この本は基本的に神学の本である。私は神学なんて全然知らないから、「わかんねえよお」って思いながらも、なんとなく面白そうな予感がずっとあって、たまにそれが沸騰して、というか、触発、強く触発して、強引で熱情的で、それでいて優しくて、冷たくて、強くて、広くて、伸びてゆくような自然があるような、そんな場が生まれていたような気がする。

 別にこれは感想文ではない。おすすめでもない。私にもう一度、この本を愛せよ、という愛なのである。
 なんて、言ってみたかっただけです。

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