人間をある要素で定義するということ

人間は社会的承認を得なければ人間として存在し得ない。

これは真理であるが、そのどこが可変の定数なのかを見誤ってはいけない。
可変定数は人間の存在である。社会的承認ではない。
例えば、人間の社会的承認を与える機械が発明されたとしよう。それは大変売れるだろうが、それによって人間として存在し得るようになった人間は人間として存在していると言えるのだろうか。
僕の答えはノーだ。
人間の存在というのは、何々をすれば定義できるというものではない。
ただ、人間の存在に不可欠な要素が度々聡明な人に挙げられていくだけである。
その中の例として社会的承認であるだけなのだ。これは別に人間がその要素を得たときに人間になるのではなくて、人間になっているのならそれがうちに芽吹いているという存在の方法をとる。
われわれの存在は定義されるものによって定義されているのにもかかわらずそれはもうすでに(われわれの存在が定義される前)、存在に含有されているのである。

アフリカに生まれたから私はアフリカ人なのではない。私の中にアフリカが生まれたから私はアフリカ人なのだ。

これはあるアフリカの運動家の言葉であるが、この中に真理は屹立として存在している。

社会的承認を得たから私は人間なのではない。私の中に社会的承認が生まれたから私は人間なのだ。

そう、人間の諸定義はその定義によって人間が規定されるわけではなく、諸定義が各個人の中に生まれたことによって人間は存在し得るのだ。

われわれは自分勝手に生きる術しか知らないのはこのためである。この自己完結性の中に自我を埋もれさせてしまった人が傲慢になるのだ。そしてそれは人間として越えられぬ壁である。

それはカントが見抜いていたことだが、それもまた定義として人間の中に受け入れられるとき、人間はまた自分を定義しつつそれを乗り越えようとする人間だけに許された営みを開始することができるのである。

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