私はなぜ「ありがとう」と言われることを嫌がっているのか

 私は嫌がっている。「ありがとう。」と言われることを。嫌がっている。

 今日はこのことについて、もしくはこのことから考えてみたい。まずはある程度具体的なエピソードを確認しよう。私がこの嫌さに気がついたときのエピソードである。

 私は近所の行きつけのラーメン屋さんに入ろうとしていた。すると、あちらから足の悪そうな高齢者の方が一人で歩いてきた。私はドアを開け、その方が出られるまでそのドアを持っていた。すると、その方は私の方を顔を向け「ありがとう。」と言った。私はなんだか嫌な気持ちになった。

 これが私が私の気持ちに気がついたエピソードである。このように書くとウミガメのスープみたいである。いや、実際ウミガメのスープみたいなものかもしれない。「私はなぜ嫌な気持ちになったのだろう?」と問えそうだからである。そしておそらくその答えは多少意外なものだからである。では、答えを見つけていこう。
 ウミガメのスープでは質問を繰り返して意外な答えに辿り着く。が、ここでは別にそれを踏襲しない。(謎を解くというのは基本的にそのような行為であるとは思うが。)

 まず、私は別にイライラしていたわけではない。漠然としたイライラもなく、高齢者に対するイライラもなかった。むしろ私は清々しい気持ちであった。気がする。まあまあ前のことなのでそういう作り話をしているだけかもしれない。が、とりあえずは信じてもらおう。私を。
 もし、足が悪い人が高齢者の方ではなかったとすればどうだろうか。と、考えてみるとなんだか、もしかすると嫌な気持ちにはならなかったかもしれない。では、それはなぜなのだろうか。

 少し考えてみた。が、いきなり答えにジャンプしそうな気がする。が、書いてみよう。私はおそらく、高齢者の方を助ける若齢者の私。みたいに思われるのが嫌だったのである。もちろん、この議論からすれば別に高齢者の方ではなく若齢者だったとしても助けることに多少純化はされていただろうが嫌さがあるべきであろう。しかし、想像するかぎりでは嫌さがない気がするのでこの議論はもう少し精度を上げる必要がある、かもしれない。が、とりあえず、典型的な優しさに私の行動が取り込まれるのが嫌だった、というふうに表現してみることにしよう。
 ここでここでの議論に有益そうな対比を作り出してみよう。それは「行為/行動」という対比である。ものすごく簡単に言えば、「どうしてそういうことをしたの?」と言われて適当な答えとして「行動」を作り出せるならそれは「行為」であるということになる。ここで捉えたいのは「行為」には二つの頓挫の可能性があるということである。一つは適当な答えを出せないという頓挫である。この頓挫にはそもそも答えが出せないという頓挫と答えは出せたがそれが適当ではないという頓挫があると考えられる。そしてもう一つは「問い-答え」の関係を見出すことが寝耳に水であるというような頓挫である。言い換えれば、そもそも「行動」を「行為」として見ることをしないという頓挫である。そして、当人にもう少し寄せるとすれば、そもそも頓挫ですらないような頓挫である。セリフチックにするとすれば、「どうしてわざわざ『行為』にする必要があるの?」とか「どうしてわざわざ『行為/行動』という対比を作る必要があるの?」とかそういう頓挫である。
 さて、私は嫌さの原因をここまで出た二つの頓挫のどちらかであると思って、そして後者の頓挫だと思って、さらにはその当人感を強めた頓挫だと思ってこの対比の話を出している。が、せっかく結構有益そうな対比の体系が作れたのでそれを整理して考えてみよう。ここでの主題は「その行動を正当化できる?」と「その行動を正当化する?」であろう。ここで一つ表現に注意を促す必要があるだろう。それは「頓挫」という表現についてである。「頓挫」というのは通常「しようと思ったができなかった」ことに使われるだろう。そのためには「その行動を正当化する?」にはYesと答え、「その行動を正当化できる?」にはNoと答える必要がある。言い換えれば、ここでおそらく重要な「その行動を正当化する?」にNoと答えることは「頓挫」に含まれていない。上では少し拡張的に扱ったが普通は含まれていないだろう。しかし、逆に言えば含めることもできる。そして、私は……

 なんというか、まとまる気がしないので今日はここまでとしよう。ただ、指針だけ示しておくとすれば、「あまりにもぬめりとした『問い-答え』の関係の読み込み」に嫌さを感じている、とは言えるだろう。ここでの「ぬめり」は勝手に組み込まれることとその組み込みを批判することが困難であることを指している。私はまるで返しのついた針を飲み込んでいるような、そういう居心地の悪さを感じているのである。しかも、私は餌に釣られたのではなく「餌に釣られた」ことにされているのである。そういう感じがある。この「ぬめり」にはおそらく二面性がある。するりとした感じとぐしぐしした感じの二つが。ここまではその示唆だけがある。私には少なくともそのように読める。ただ、中途半端なのである。
 「しない」は「できない」に組み込まれる。そういうシステム。「する」は「できる」に組み込まれる。そういうシステム。その「組み込まれる」の受動性、そして「受動している」とすら言えないような……。そういうものがそこにはある。私はそのように感じている。「正当化」のゲーム、その生暖かい、権力性?よくわからないがそれが気に入らないのである。しかし、この訴えも届かないような、そんなゲームが気に入らないのである。

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